「寝転(こ)がり地蔵」 


 彼は六十年近くも、森の中を通る道筋の地面に横たわっていた。村の人間は彼のことを「寝転がり地蔵」と呼び、他は山菜採りに来る者たちだけが、彼のことを知っている。それだけ、その道は人通りの少ない道であったのである。車が通れるほどの広さはあるものの、舗装もされず、また通る車など殆ど無かった。
 彼には、いつもお供え物をしてくれる老婆が居た。しかし老婆はもうずっと前に彼の前から隠れてしまい、続けてお供え物を置いていたその娘も、二十年くらい前の夏にいつもと同じ饅頭を置いたきり、姿を消していた。体には緑色の苔が生え、それは足下から首筋まで、斜めに空を見上げたままの彼の体に住み着いていた。
 それでも、村の人間は彼を別に邪険にはしていなかった。通りすがりには手を合わせ、時には心ばかりのお供え物をしていく。ただ不思議なことに、彼の体を起こし上げようとする者は誰一人としていなかった。苔を取ってくれるのも、それが彼の顔面までを覆ってからである。首筋までの苔は生えたきりで、最近ではそれが衣であるかのようであった。
 しかし彼は六十年近くの間、そんなことは少しも気に掛けることはなく、またそれ以外の何に対しても怒っていなかった。蝉に小便を掛けられようと、山菜採りの人間に時々誤って頭の辺りを蹴飛ばされようと、怒る必要は何もないと思っていた。冬に降りしきる雪も、夏の厳しい日射しも、梅雨の嫌気が差すような長雨も、彼には少しとして堪えることはなかった。だから彼は落葉の絨毯に身を横たえ、ただ空の変わっていく様を見守ることが出来ていたのである。
 彼は空を見ることが好きだった。
 木々の間から見る空は常に美しかった。希薄な感のある青い空も重々しい曇天も彼は好きで――嫌いな空など実は何一つとして無かったのだが――特に、柿色に染められる秋の雲の流れていく様を見るのが、彼は好きだった。

 その日も、彼は森の奥に向かう人間達を見送った後で、大きな雲の周りに浮かんでいる小さな雲の数を数えていた。
 三十まで数え終えた頃、奇妙なことに、いつもとは全く逸れてしまっている時間帯なのに、彼の時間を途切れさせるような足音が聞こえてきた。観光客の類の来る日取りではない。彼は何事だろうと視線を少しだけ傾けてみた。どうも、一つは歩き方がこのガタガタ道に慣れていない感じで、土地の者でないようである。
 男が二人、近付いてきていた。一人の若い男は知らない男、一人の年老いた男は幾度か見掛けた男。それはこの村の村長であったのだが、彼は無論、そのようなことは知らずに、妙な抑揚の付いてしまっている話し声を聞いていた。
「これです、儂らの間では寝転がり地蔵と呼んどりますが……本当に、このお地蔵様に価値があるんですか」
「ええ、これですよ、これですよ」
 眼鏡を掛けた若者は彼の体のあちこちを触り、細かな部分の隅々まで観察しながら興奮した調子で切り出した。
「戦前に名を馳せていた彫刻家、梶木隆介。彼が最後の作品として選んだ題材というのが地蔵菩薩であるという噂は流れていたのですが、肝心の作品自体は戦後の混乱の中で失われてしまったのです。それがそれ、梶木の妾であった女性が娘を連れて里に帰るとき、その地蔵菩薩も一緒に持ち帰ったのだという話をひょっこり耳にしましてね、いや僕も本当だと思ってはいなかったのですが、取り敢えずこちらにお邪魔したというわけです。それが村長さん、本当に梶木の作品に出会うことが出来た。僥倖僥倖、これも天の巡り合わせという奴ですかね」
 彼は若者の声を聞き、後ろに束ねられた髪が言葉と共に跳ね踊るのを見、よくも喋る男だと思い、自分の主であったという梶木という名前について何か覚えてはいないかと、あやふやになったままの記憶を繰り始めていた。
「はあ、それで、この地蔵様に価値というのはあるのでしょうかね」
「雨ざらしになっていたから保存状態はあまり良くないですね。それでも梶木の晩年の、しかもあの幻とされていた地蔵菩薩ともなれば、数百万円の値が付くでしょうよ、恐らくは。彼の作品の愛好家・蒐集家になれば尚更だ」
「このお地蔵様がねえ」村長は感嘆したような声を上げると手を合わせ、彼の正面を向いて拝んだ。「そう言われてみますと、大変立派なもののようにも思えてきますな」
 もう一度、今度は先程よりも深々と拝むと、村長は掛け声をあげて腰骨を鳴らした。
「取り敢えず寝転ばせたままというのも何ですから、起こしてあげておきましょうか」
 その言葉に、彼は少しばかり嫌な気持ちを覚えていた。起こされてしまえば天は微かになってしまう。言葉を発することも出来ず、指一本動かすことすら出来ない体であることに歯痒い思いがした。それが出来れば抗議の声を上げ、災いの及ばない場所まで自分の二本の足を以て行き着くだろうにと。
「いや、このままで構いません。むしろずっと寝転がっていたんだ、下手に起こしてしまうと何が起こるか分からない。起こすのは明日、これを村の方まで運んでいくときで良いですよ」
 彼はそれを聞くと、安堵に胸を撫で下ろした。若者は自分の言葉に気をよくしたか、何度も何度も彼の方を見ては大仰に頷いている。
「しかし学生さん、あなたには、幾らお礼を申し上げても申し切れませんな」
「気にしないで下さい、僕は梶木の作品に出会えただけで幸せですよ。残りのことは、村長さんに一任します。さて戻りましょうか、今日は祝い酒だ」
 二つの声が来た道を村の方へ下っていく。そうしてしまうと、彼はまた一人だけで天を見上げる形になった。
 どうなるのだろうかと、彼は焦点をぼやけさせた。白と日射しに薄められた青とが滲み、美しい境界線を描く。この場所に留まり続けることが出来ないのは確実であるように感じられていた。そうしてしまえば、この美しい空を見ることの叶わない薄暗い場所に閉じ込められてしまうのだろうか。
 彼はゆっくりゆっくり、記憶を呼び覚ましていた。空ばかりを眺めていた彼には時間の感覚などとうに失われていたから、それこそ雲のゆったりと流れていくように、徐々に輪郭を明確にしていったのである。
 最初に彼が思いだしたのは、鋭く高い音であった。時には規則的に、時には緩慢に響き続ける音は、刻み込まれていた内側から、彼の意識に向かって淡々と向かってくる。そして次に聞こえてきたのは、嗄れた老人の声。
(外に雨ざらしになって、通り過ぎる色々を見つめ見守ってこその地蔵だ)
 声は梶木本人のものだろう。彼は、自身の意識を、内側に向かってゆっくりと投下していった。声が体に染み渡る毎に、思い出される記憶がある。
(お前に美術館や蒐集家の自慢たらしい部屋は似合わない。私の魂を受け継ぐことこそがお前の役目だ。自然に包まれて何時かは自然に帰る。それこそが最もお前に相応しい形で、そして私の望みでもある)
 彼を作り出しながら、梶木が呪いのように吐き続けていた言葉がある。お終いの方には震える手を懸命に抑え付けながら完成させた梶木は、それをそのまま自分に残されていた家族に手渡した。決して室内には置かず、何処か車の通らないような道に放って置いて欲しいと。
「お地蔵様」
 声は、突然天から降って湧いた。
 知らない、そう彼は腹の中で呟いた。顔を知らない限り、この村の人間ではないだろう。先程の若者と同じようであり、また違うようでもある。真っ白なワンピースは、陽を吸い取って鮮やかに映え渡っていた。
「大分汚れてしまってるのね」
 女性は水に浸したタオルを左手に持ち、右手で彼の苔むした背中を支え、顔の汚れをゆっくりと、力を入れすぎないように気を付けながら拭き始めた。
 彼は水の冷たさを感じながら、吹かれる風に肌が乾く感触と、それとは逆に体に浸み入ってくる心地よさに陶酔していた。満足している表情の動きなど誰にも見取れなかったが、彼の顔から読み取れるイメージは如何にも優しげであった。
 彼は、いつしか眠りについていた。闇に染められた緑と、垂直に伸び上がっているような夜空の訪れを見ることなく休んだのは、初めてのことであった。

 閉ざされた視界の端で、ぼんやりと柿色が動く。
 それは何であるのか、彼は知らない。
 小さな塊は、ただゆらゆらと風に揺れていた。

 目を見開いてみると、眼前には彼の知悉している森の風景はなく、小さな池がぽつねんと在るだけだった。
 彼のすぐ近く、その寂寥とした水際に滲んで見えるものがある。
 彼は目を凝らしてみた。それは彼にとって、とても大切なものであるかのように感じられていた。

 ふと、目が覚めた。
 闇を感じながら、彼は、恐らくこの闇とも違うのだろうなと笑った。空気の流れが彼を包み込み、そして血の通わない肌をゆっくりと撫でていく。気怠げな動きではあった。相応しい、と彼はもう一度微笑んだ。これからはもっと気怠げな闇と向き合わねばならないのだろうから。

 吹き抜ける風は、冷たさを伴っていた。
 彼は岩のようにじっとしている。
 今日の夕暮れは、柿色に染まれない。
 代わりに、赤トンボ(※)の尻尾がゆらゆらと揺れている。
 オレンジ色の機体は頓着せずに空を駆けていた。
 本当に在るべきものとは違う、牧歌的な装いに空は包まれている。

 この道に横たわり、彼は辛い時代を碌に知らないまま過ごした。遙か頭上を過ぎっている筈の大きな飛行機のことなど、知る由もなかったのである。森は何も告げなかった。ただ通りすがる老婆や子ども達の表情を見て、朧気に知っているだけだった。
 これからはどうなるのだろう、と彼は呟く。何をすれば良いのか、何をしたらいけないのか。何のためにあるべきなのか。答えてくれる者はいない。教えてくれる者のいないことに、彼は少しばかり憂鬱な気分を覚えた。これまでは何をせずとも、何をすれば良いのかを知っていたのである。ここから動くことは、彼を彼でなくすることではあった。 

 西日の眩しさに、彼は思わず視線を逸らせた。
 傍らに在る、古木と目があったような気がして、ああ、と思わず、声が洩れた。

 その男は彼と同じようにして古木を見上げていた。
 腰掛けられても、彼は悪い気持ちはしなかった。
 尻の温かみがうっすらと伝わってくる。

 彼は薄ぼんやりと思っていた。自分が居なくなってしまったことに気付いたとき、毎日傍らを通っていく村の人間は哀しんでくれるだろうか。それとも何の感傷も抱かず、自分のあっただろう窪みを少しだけ見遣るとそのまま行き去るのだろうか。
 忘れてくれれば良い、と彼は思った。忽然と消え去っても、何も変わらない、そのような存在であることを彼は矜持としていたのである。自分から何一つとして主張しないことが、昔からずっと、彼の姿であった。
 それすら奪われてしまうのだと、彼は嘆息した。

 枝には柿が幾つか垂れ下がっている。
 男は軽く背伸びをすると、一つをもぎ取った。
 もぎ取ったそれを、ただ掌中で弄ぶ。
 子どもがお手玉をしているようであった。

「お前は、どうしたい?」
 男は呟き、彼のごつごつとした肌を愛おしげにさすった。
「どうもしたくないだろうな。全ては人の勝手だ」
 彼は返事をすることもなく、彼の手元に視線を寄せる。
 そのまま、吸い寄せられ、動かなくなった。
 男は彼と同じように視線を天に向けると、一際高く柿を放った。

 彼は、自分が岩なのだと気付いている。
 そして、自分は地蔵なのだと知っていた。
 しかし、それ以外の何者でもないのである。

 疲れたように視線を這わせると、天の星々すら呑み込んでしまうような闇の向こうから、嗄れた鳥の鳴き声が響いた。珍しくもないことではあったが、思いも掛けず不気味なもののように聞こえていた。彼は自らを奮い立たせるように視界を強く閉ざすと、もう一度、今度は覚めないような深い眠りについた。

 昨日の若者と村長の二人組は、今日は白の軽トラックに乗ってやって来た。二人の他に後ろからもう一台、同じような軽トラックでついてきた男達が数人、一人はカメラを提げた新聞記者だった。若者は記者に向かい意気揚々と説明を始めていたが、彼はやり取りには頓着せず、むしろ好きにすればいい、と自棄にすらなっていた。
 最後になるであろう空は、少しばかり翳っているようである。
 大体、何十年と長い時間をかけてここを住処と思っていたのに、何故ここを動かなければならないのかが分からない。最後の一欠片が朽ち果てるその一瞬まで、彼は陽を注がれ、地に抱かれていたいのである。
 若者が何のために自分を動かそうと言うのか。運命を動かすことに何の意味を見出そうとしているのか、彼には全く分からなかった。
 彼は茫洋として視界を巡らす。端に、白いものが止まった。捉えなおす度に、それは確実にこちらに近付いていた。昨日見た、あのワンピースが再び彼の前に翻っていた。
「違います、梶木の作品はそれではありません」
 声音は如何にも優しげである。それが、若者達の前まで進み出て意外な言葉を吐いた。
「何ですか、あなたは」
 若者は訝しげに女性の方を見遣った。ただ声の主の穏やかさに気圧されたのか、声はそれ程高圧的ではなく、単に尋ねている調子である。一団に向かい軽く一礼をすると、女性は軽く溜息をした後で微笑みかけて見せた。媚びている様子のない、柔らかな笑みである。若者はその柔らかさに包まれてしまったかのように、ほう、と息を付いた。
「私の名前を申し上げても意味はありません……ですが出自はこの際重要なことになるでしょう。梶木隆介は、私の祖父になります」
「つまり、あなたは……梶木の妾が産んだ子どもの娘、つまりは孫、ということに」若者はここまで言い差して、自分の言葉の失礼さに気付き口を閉ざした。入れ違うようにして女性は笑みを浮かべた。
「別に私の祖母がどう言われようとも構いません。ですが、村長さんから母の方にお話を頂きましたところ間違いは正さなければならないということになりまして、入院しております母の代わりにお邪魔いたしました」
 彼はほう、と思いながら女性の声を聞いていた。梶木の面影があるかどうか判別することは出来なくとも、彼は不思議と、懐かしいような気持ちにさせられていた。
「しかし、この地蔵菩薩は確実に彼の作品なのです。第一、突然現れてきたあなたが梶木の孫だと名乗っても、そこには何の信憑性もない」
「いいえ。祖母が預かった作品は、私の家に保管されております。勿論未発表ですが……それが、正真正銘、梶木の最後の作品なのです。そしてそれには、梶木本人の筆による手紙も附いております。それをご覧頂ければ、私の正しさは証明されるでしょう」
 女性の一言一言は、自信を持った人間だけが持ち得るような説得力ある響きに満ちていた。若者は抗議の声を上げようとしたが、自分が村長達の視線を浴びていることに気付くと決まり悪そうに面を伏せた。
「ですが、これは……」未練がましく彼の体に触れ、若者は口ごもりつつも途切れ途切れに言葉を発した。「素材は確かによくありません、ですがこれは梶木隆介の作品なんです。僕が間違えるはずはない、ずっと見て来たんです。最初は中学校の美術の資料集で、そして次は美術館で。現存する作品で公開されているものは、僕は全てこの目に焼き付けてきたんです」
「間違ってはいませんよ。ですが、これは梶木の作品とは違うんです」
 分からない。若者は呟き、彼の視界に手をかざした。
「あなたが梶木の作品を好きなら、このお地蔵様に手を合わせてみてご覧になって下さい。そうすればきっと、何が何のことなのか、分かりますよ」
 やや戸惑いながら、素直に手を合わせ彼を拝む。若者は二三分、そうしたままで彼の前に屈み込んだ。その間彼がしていたことと言えば、ただ若者の胸元に収められているボールペンの頭と、泣きそうなのを堪えている表情や動作とを交互に見比べていただけである。
 若者は何度も薄目を開けては彼を睨むように必死になって見つめ、そして口元を緩めてはその度に引き結んだ。唇の端から息を吹き出し、眼鏡を押し上げては目頭を押さえる。乱暴に髪を掻きむしった後で額を軽く引っ掻く。そんな色々な仕種も、彼は一つとして見逃すことなく目に捉えていた。
 最後には彼の頬を撫でた。ゆっくりと額の方まで撫で回してから、それでも名残惜しそうに一礼をした後で、若者は腰を上げた。
「行きましょうか。無駄足になってしまいましたね記者さん、どうも済みません」
 声は清々しいものであった。
 それと同じ声が(惜しいな、悔しい)と呟いたのを聞いたのは、彼だけだった。
 記者は何か言いたそうにしていたが、若者に軽く肩を引かれるとそのまま引き寄せられるように車に乗り込んだ。軽トラックは来たときと同じように大きな音を立てながら、砂煙を立ち上げて村の方へ消えていった。
 それを最後まで見届けた後、女性は村長に向き直り、深々と頭を下げた。
「ご連絡を頂きましてありがとうございます、村長さん」
「いえいえ、あの学生さんの口から偽物だったと広まれば、もうこんなことは起きないでしょうな。ましてや彼はあのお地蔵様を拝んだのですから……しかし、良かったのですか? あれだって、それなりの価値ある作品だったでしょうに」
「私は祖母の遺言を聞き届けただけです」
「遺言、ですか」
 頷くと、女性は、彼の額の辺りに手をかざした。昨日は知らなかったが、手の触れた感触は白く柔らかく、如何にも優しげであった。
「私は約束を守っただけですから――」
「しかし何ですな、梶木氏はどんな気持ちでこの寝転がり地蔵を彫ったのか――仏さんならまだ分かりますがね、わざわざ地蔵様を彫る気持ちが、儂には見当も付かんですな」
「さあ。でも、寝転がり地蔵の名前を付けたのも祖父だったそうです」
(何もしなくて良い。寝転がって天を眺めて、それだけで道を行き交う人はお前の姿に少しだけほっとするさ)
 彼は梶木と話をしていた。彼は一言も語ることが出来ず、それは梶木が一方的に喋るだけのものではあったのだが。
(最後までずっと空を見ていればいい。それがお前にとって一番幸せだ。俯いてしまえば地を見ていればいい。それもお前にとって一番幸せだ。ゆっくり生きて、ゆっくり死んでいけ)
 一所懸命に探し求めた石ではない。庭に置かれていた何処にでもあるような普通の石、鑿の一刀一刀言葉と共に彼の体を作り上げた。梶木隆介は自らの内に残された僅かな魂を彼の隅々にまで打ち込んだのである。
 彼は、美術館や蒐集家の部屋がどのようなものであるかは話に聞いたことはあっても実際に見たことはなかった。ただ、彼が梶木の家から運び出され、汽車で、車で、そして最後には大八車でこの道に置かれたとき、初めて空を見たときの感慨は覚えている。
 それは今までに知らなかったもので、低い天井だけを知っていた彼には信じられないくらい、刷毛で塗りたくられたような青は果てしなく広いものであった。
 その空にも終わりはある。彼は寝転がりながら、そう思うようになっていた。視界の端から現れ、また片方の端に消えていく。彼の目に見える空はそれだけである。額縁は、常に終わりのない世界を描き続けていた。万華鏡のように、くるくると、くるくると回る。青と白と水色と黒と灰色と――そして柿色とが、鮮やかに混じり合っていた。まだ地蔵としての命を与えられていなかった頃、梶木の庭で見事な実を生らせていた柿の色と同じままに。
 ただ、それがどうしたと言うのだろう。
 何事かを話しながら軽トラックに乗り込み立ち去る二人の背中を見送ると、彼はまた天に視線を配った。終わりを知るから美しいのだ、この空は。終わらないと思えば、同じ美しさを感じることは出来ないのだろう。そう心中でそっと洩らすと、いつの間にか陽の落ちかけて大好きな柿色に染まった空の下、蜻蛉の尻尾がせわしなく微動する様を見つめながら、彼はいつもと同じ微笑んだままの姿勢で、道に寝転がっていた。

 ※赤トンボ――海軍93式中間練習機、通称「赤トンボ」


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