「きぃちゃん」


  東の山の天辺辺りに引っ掛かっている刀のような鋭い月の光が、深い深い火口湖に泳ぐ魚をつついて遊んでいる夜のことでした。私はその頃にはもう随分と歩いていました。昼間から歩き通しだったので、足はもうふくらはぎの裏の辺りがずきずきと痛んで今すぐにでも傍らの岩にもたれ掛かりたい程でした。今が何時なのかは分かりませんでしたが、いつもならとっくにベッドの中に入っている時間であることは、身体の中で石のように硬くなっている疲れが教えてくれていました。両親も、いつまで経っても帰ってこない私たちのことをとても心配していたことでしょう。けれども、私は帰るわけには行かなかったのです。
 きぃちゃん、とは私の弟の呼び名です。本当の名前は紀一郎というのですが、そう言われる方が弟も喜ぶので親戚の叔母さんや近所の人たちも含めて皆きぃちゃんと呼んでいました。誰かに自己紹介をするときにもきぃちゃんと名乗るのです。五歳下の、愛くるしい自慢の弟でした。
「きぃちゃん、飴食べる?」
 そう尋ねると、少し間を置いてから、嬉しそうに頷きます。
「食べたら歯磨きよ?」と言われて、うんと返事をします。
 まん丸い小さな手で受け取ると、不器用な手つきで包み紙を開き、高く掲げて大きく広げた口の中にぽとんと落とすのです。台所の食器棚の上の、椅子に登って背伸びをしても丁度届かないところに、きぃちゃんに食べさせてあげるための大きなビンがいつも満杯になって置かれていました。
 私は弟のことは嫌いではありませんでした。むしろ大好きで、来年には一緒に登校するのが楽しみでもありました。だけど、私ばかり放って置かれているのに自分ばかり可愛がられているきぃちゃんのことは、そう思うのが嫌になるくらい嫌いでした。お姉ちゃんなのにこんな小さな子みたいなことを思って、と自分で自分を叱ってみても、自分で独り占めしたお菓子を頬張っているきぃちゃんを見るとやっぱり腹が立ってくるのです。
 だからと言って打ったりなどと酷いことをしたくなる訳でも無かったのに、何であの日に限ってあんなことをしてしまったのか、自分でもよく分かりません。お昼ごはんを食べた後、お母さんは少し遠いところに住んでいる伯父さんの家まで出かけていました。私ときぃちゃんはお留守番を言い付かりました。
 きぃちゃんは寝転んで絵本を読んでいて、私はその横で学校の宿題を解いていました。
 私はふと、ちょっとした悪戯心を覚えました。本当にちょっとした出来心だったのです。
「きぃちゃん、飴欲しい?」
「うん」
 お腹が空いていたきぃちゃんは二つ返事で頷きました。私は台所にある飴を幾つか取って来て、その内の一つを渡すと「私の言うことを聞いたら、お母さんに内緒で飴をもっとたくさん食べさせたげる」と告げました。
 そう言って私は、きぃちゃんに頼み事をしました。お小遣いの百円玉を渡して、文房具屋さんへお使いを頼んだのです。お母さんに言いつけられて怒られるかも知れないけれど、それくらいなら別に良いやという大胆な気持ちになっていました。
 きぃちゃんは文房具屋さんの場所も知らないのに、お使いを頼まれたのが嬉しいのか、銀色の硬貨をぎゅっと握り締めて「うん」と大きく頷きました。
 私はこっそり後をつけて行きました。何処かで寂しくなって、泣き始めるだろうと思ったからです。ちょっと可哀想かなとも思い始めていましたが、まだ好奇心の方が先立っていました。きぃちゃんは見当はずれの道をどんどん先へ進んで行きます。私が焦りを覚え始めたのは、通学路から外れて、知らない世界へ入ってしまった辺りからでした。
 何処をどう歩いたのかも分からないまま、気が付いたらそこは山道で、風がざわざわと不気味に靡いていました。ここら辺りの子どもなら誰でも、絶対に子ども達だけで入ってはいけないときつく言い付けられている山です。きぃちゃんはまだ気持ちが昂っているのが不安より優っているのか、一向に足を止めようとはしません。もしかしたら、私が居るのを知っていてだから大丈夫だと思っていたのでしょう。
 私は帰ろうと思いました。きぃちゃんに嘘だったのと謝り、一緒に帰ってご飯を食べてテレビを見て、絵本だって今日は飽きるまで読んであげようと思いました。でも走って捕まえなきゃと思っても足がすくみ、大声で呼ぼうと思っても喉が恐怖に縛られて声が出ません。
 そして、きぃちゃんの姿は全く見えなくなりました。
 いつの間にか、太陽に代わって月の周りを淡い輪が取り囲んでいました。霞んで柔らかくなった光が、木々の間を霧のように流れていきます。ポケットに手が当たり、私はその中に飴玉が入っていることを思い出しました。きぃちゃんに食べさせてあげるためのサイダー味の飴玉です。
 それが、寒さにかじかんでいた指先から零れ落ちました。偶々出っ張っていた岩に当たって下のほうへ落ちていきます。私はそれを追いかけようとして、そこがちょっとした崖になっていることに気付き、慎重に足場を選びながら降りていきました。でも多分、私から貰った大切なお金だから、そんなことにも気付かなかったのです。
 夜でも狐雨と呼ぶのでしょうか。夜の闇の中でも晴れていると分かる空の合間から、小さな冷たいものがぽたりぽたりと落ちてきて、私の頬にも当たっていました。
「どうして?」私はいつしかぺたんと座り込んでいました。飴玉の側では、銀色の輪が鈍く鈍く沈んだ光を所在無げに受け止めていました。
 もう十年も前の話になります。あの後は大変なことになって、時間の前後はよく覚えていません。次に覚えているのは、入学式で歌われている校歌をぼんやりと聴きながら見上げていた体育館の天井の染みでした。そこで私は、もう一度、ほろりと泣いたものでした。
 あの飴はお棺の中へ一緒に入れたので、もう残ってはいません。

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