大時計は、ぽっかりと口を開けていた。
何かがぶつかって空いてしまった痕に、針が引っ掛かって細かに痙攣している。
誰もいなくなってしまったから、誰も大時計を直せないし、直そうとはしない。
私は風見鶏を撫でて、真正面に立っている大時計を見つめていた。
鈍く光を放っている風見鶏は、ぎらぎらしていて、ひんやりしていた。
元々は教会の壁に掛かっていた。元々はその屋根の上で風に靡いていた。
今は、こうして何もない時間だけを私と共に過ごしている。
「神様って、本当にいるのかな?」
そんなもの、嘘だろう。私は沢山の死を見た。その一つ一つが、神様に裏切られ、信じていたものを不意に横からひょいと取り上げられたのだ。悪戯でもなく、取り上げられた後で「やーい引っ掛かった、冗談だよ」といって返してもらえることもない。言い訳することは誰にも出来ない。どんな言葉も元に戻すことは不可能だ。
ガラリ、と石が勝手に崩れ落ちる音がする。
前はこんな小さな音にも脅えていた。何か余計なことをすれば命が奪われてしまいそうで、不安で堪らなかった。今は気にならない。死者以外には誰もいない町で、私は生きる希望もなくしてただぼんやりと死ぬことを待っている。
もう一度、ことん、と音がした。
「ちよみちゃん」
隣の家に住んでいたちよみちゃんは、とても不格好だった。右手と右足を吹き飛ばされて、どうやってこの町まで戻ってきたのだろう。
私の声に、ちよみちゃんは微かに頷いた。
「うん……」力無い小さな声も、何とか私の耳まで辿り着いた。
「どうしたの?」
隣に同じようにして腰を下ろすと、すとんと、ちよみちゃんの左肩がもたれ掛かってきた。温かみは殆ど無い。
「地雷。大きな爆発で車ごと吹き飛んで、沢山死んじゃった。私は一番後ろに座ってたから大丈夫だったんだけど、ここに戻ってくるときに、駄目だった」
死ぬのはもうとっくに分かってる。そんな感じで、ちよみちゃんは笑った。少なくとも、十歳の子どものするような笑みではない。私はその笑みを見て、初めて胸が痛くなった。
「一人なの?」
「うん。お姉ちゃんは?」
「私も一人。だからこの町は二人だけ」
「うん。お姉ちゃんだけだったもんね、嫌だったの」
生き残ったみんなが逃げようとして残されていた車に乗り込んでも、私は乗らなかった。きっともうどうにもならないと言うことは、もう分かっていたから。
最初は、生き残っていた他の大人達も色々と言って無理矢理乗せようとしていたけど、最後には諦めて、そしてそのまま、私より先に死んでしまった。でもきっと、大した違いはない。どうせ結局は死んでしまうから。
「私、死んだらどうなるんだろう」
「穴に埋めてあげる。みんなも一緒だから、寂しくないよ」
「お姉ちゃんが作ったの?」
ちよみちゃんは少し驚いた風だった。私は嬉しくなって笑んだ。
「うん、最初は私のお父さんとお母さんだけだったんだけどね、他の人が可哀想だったから、砲弾の痕に埋めてあげてるの」
でも瓦礫の下で死んじゃった人は無理なんだと付け加えると、じゃあ私は大丈夫だからお願いねお姉ちゃん、とちよみちゃんは言った。
十分くらいして、ちよみちゃんは死んだ。
私は肩をずらして残った抜け殻を地面にそっと降ろすと、いつもやっているように、梃子を使いながらリヤカーにそれを乗せた。子どもだし半分欠けてるから、ちよみちゃんは他の人に比べてとても軽かった。リヤカーに乗せた後で、私はもう一度だけそっとそれを抱き締めた。
飛行機が空を飛んでいく。
その中の一つとしても私達の町のことは気にしない。
誰も助けに来てはくれない。
私と、この町は忘れ去られた存在になっていた。
きっと、吹き飛ばされたのも何かの間違いだったのだろう。
この町には何もなかったし、私も、私の家族も、ちよみちゃんも、みんな何事もなかったように幸せに暮らしていたのだ。
地面に落ちていた石ころを空に投げると、意外に高く上がって、そのまま穴の方へ転がっていった。
何の意味もない。私がしてることも、私が生きてることも。
溜息を付くと、私はリヤカーを傾けた。
食糧は底を付く様子がなかった。
瓦礫の中の死体が腐り始めて、嫌な匂いが漂っている。
吐き気を覚えても、感情の方から出てくるものは何もない。
まだ誰も来ない。
飛行機も、最近は少なくなった。
私から全てを奪った何もかもが、私の住んでいた村を忘れ去っていく。
どうしようもなく虚しかった。
疲れたのか、足がふらついて仕方がない。
でも私はリヤカーを押し続ける。生きる可能性が無いのに、自分で死ぬことは怖くて出来ない。何日経ったかも知らないけれど、日付なんて知る必要もない。大時計の側にいれば、時を知っても時間を知らずに済んだ。
最近は運ぶ死体も無くなったから、私は大時計の側で、中学校の図書室の跡から引っぱり出してきたぼろぼろの本を読んでいた。学校に行っていた頃は読む気もしなかったような難しそうな本だけど、そこに書いてある言葉は、自分でも驚くくらいにすんなり頭に入った。そして書いてある夢物語のような理想論に、泣きそうになった。
私はまだ死ねない。
ゆっくりゆっくり、嫌になるくらいゆっくり、私は死んでいる。
水を飲み、食糧を一応は節約して、それで命を繋いでいる。
希望も何もないのに何故そんなことをしているのか、分からない。
ただ規則的な子守歌を頭の中で刻みながら、町を歩いてみる。
風見鶏を胸に抱きながら、そこにいた誰かのために子守歌を口ずさむ。
それ以外の歌は頭に浮かばない。
でも、これ以上に相応しい歌は無いように思えていた。
そして夜になれば、黒に塗りつぶされた世界に抱かれて自分のために口を開いた。
付けてみたラジオから飛び込んできた音声は、途切れ途切れだった。それは終戦を告げていた。戦争が終わりだと、平和が訪れるのだと。
「どこから戦争だったの?」
私は自問してみる。答えは見つからない。平和というのも分からない。私は最初から最後まで何も知らない平穏の中にいて、ある日突然全てを奪われた。誰かに頼んだ訳でもなく、何をしたわけでもなく。そしてラジオは何事もなかったかのようにそれからを伝えていく。全てがまやかしで、茶番劇で、一人相撲だった。私はそれを聞くたびに目の前から消え去った人達のことを思い、泣いた。
私は孤独の町で、ただ誰かに気付いてもらえる日を待つ。
誰も、何もまだ来る気配はない。