「何だ、何にも変わってないんだな」
浩二は、道沿いに並ぶ屋台を眺めて言った。
翔平はそれに相槌を打つ。
二人は、凡そ十年振りとなるだろう、故郷の夏祭りに来ていた。
就職をしてからは二人とも、故郷に戻るのは正月の顔出しくらいになっていた。盆に帰ろうと思ってもサービス業の浩二の都合が付かなかったり別の用事に追い立てられていたりで、なかなか時間は取れていなかったのである。
今年はまともに休暇が取れ、郷里の両親の勧めもあって里帰りしていた浩二を翔平が誘いに来たのは、つい一時間前のことであった。
「しかし何だ、まるでタイムスリップしたみたいな感じだな、こりゃ」
アニメキャラクターのお面や風船、焼きそば綿飴リンゴ飴、たこ焼き烏賊焼きクレープ次いでに箸巻き……十年振りだというのに、夜店は何一つ変わらない姿で並んでいた。変わっていると言えば、くじ引きの景品に遊戯王カードが並んでいるくらいだろうか。
「お、玩具屋もやってるのか」
冷やかして店の前を離れた後、二人は顔を見合わせあい、浩二は喉を鳴らして、翔平は噛み締めるように笑った。
「思い出したか」
「ああ、思い出した。指輪のことだろ?」
「正解だ。暫く会っていないでも、やっぱり気が合うな」
――と、その時。小さな浴衣姿の女の子が、浩二の視界に入った。
輪投げの屋台の前で不安そうに、辺りを見回している。
迷子かもしれない、と思った浩二は、翔平の肩を叩いた。
「ん、どうした」
「あの娘――迷子っぽくないか?」
祭りの喧噪の中で、女の子は人並みに揉まれながら、今にも泣きそうな目をして、右手に持った風船をぎゅっと握り締めている。その姿を見たとき、浩二の心を駆け抜ける既視感のような光景があった。
音は消えていた。
全てが呑み込まれて白黒の活動写真になってしまった中で、女の子の姿だけ、鮮やかに彩色が施されている。ゆっくりとスローモーションのように動く背景の中、こちらを振り向いた女の子の顔は――
「どの子だよ、迷子って」
のんびりとした翔平の声が、浩二の聴覚を正常に呼び戻した。
「迷子なんているか? 何処にもいないが」
「いや、ほらそこの輪投げの前で……」
と浩二が指差した先に、女の子はもう居なかった。
「あれ、今さっきまで立ってたんだけどな」
「見間違いじゃないのか?」
その思うところに間違いはないと感じつつも、浩二は何とはなしに翔平の言葉に反発したい自分を覚えていた。しかし、ほんの少し前まで浩二の全感覚を惹きつけ奪っていた女の子の姿は、もう見えない。
「かもな」視線を未練がましくさし向けながら、浩二は答えた。
「じゃ、俺は焼きそば買ってくるから、先に階段のとこに行っといてくれよ」
財布を掌上で弄びながら告げると、翔平は来た道を逆に辿り始めた。
階段は、境内に続く階段のことだ。夜店の列から一つ外れて歩いたところに、祭りの喧噪から忘れ去られてポツンと存在している。昔から食べ物を買うと、二人はそこに腰を落ち着けて腹ごしらえをしていた。
雑草の生い茂る石畳の道を歩くと、果たして階段はあった。
そしてそこに、先程の女の子も、足を投げ出しながら座っていた。
風船を右手にしっかりと持ったまま、俯き加減にして闇に冷やされた石段にお尻を置いている。明かりも遠く、遠目からには表情までは窺えないが、浩二には女の子は涙を堪えているようにも思えた。
「どうしたの、お母さんとはぐれて迷子になったの?」
近付いてくる浩二に女の子は警戒心を抱いた目をしていたが、掛けられた声の優しさに安心し、ふるふると首を横に振った。
「じゃあ、お友達と一緒に?」
今度は、縦に動いた。浩二は、この子も自分たちと同じように何かを買ってくる友達を待っているのかなと思い、あげられた顔をふと覗き込んだ。
そして気付いた。
ああそうか、と浩二は頷いた。この娘は清水郁子に似ているんだ。
いや、これだけ似ているのだから、もしかしたら彼女の娘なのかも知れない。
浩二は平静を装いながら、女の子から二三段前の位置に腰を落ち着けた。
他人の空似とは言い難いほど、女の子は浩二の記憶の中にある彼女の姿と似ている。
「君は西郷小学校に通ってるの?」
三年生です、としっかりとした声が返ってきた。西郷小は浩二達の通っていた学校でもある。三年生だとしたら、彼女は二十一で出産したことになると浩二は弾き出した。今の感覚で言えば比較的早いほうだろうが、決して異常な年齢でもない。
「人間違いだったら申し訳ないんだけど、君は清水さんって言わないかな? お母さんの名前は、清水郁子さん」
驚きに目を見はったのは、よく見て取れた。はい、そうです、と口が動く。
「そうか。僕は君のお母さんと小学校の同級生でね。もしかしたらと思って声を掛けたんだけど、君はお母さんによく似てるね」
よく言われていますと聞いて、浩二は顔を微笑ませた。
「君のお母さん――清水さんはクラスでも人気者でね、男子からも女子からも、皆から好かれてた。本当に君とよく似ている人でね、僕も、僕の友達の近藤って男子も、清水さんのことが好きだったんだ」
「そうだったんですか?」女の子は、顔を少し赤らめさせ、そしてはにかむように笑んだ。「お母さんのことをほめられると、私もうれしいです」
「このお祭りで指輪を取り合ったのは、ちょうど君くらいの年だったな。二人とも、清水さんにプレゼントするつもりでいたんだ」
「ゆびわですか?」
「そう。最後に五十円ずつ残ったお小遣いを出し合って、一つだけくじを引いたんだ。それで当たったのが指輪。本当に安っぽい指輪だったけど、僕等には珍しかった。それでどっちがそれを貰うか決めようとしたとき、揉めたんだね。どっちも分かってたんだ、この指輪をどうするのか、誰にあげようとするのかって」
「それでどうなったんですか?」
「どっちも。結局ね、僕が預かったまま、どっちの物にもしなかったんだ」
「けんかするからですか?」
「うん、どうなんだろうね。でも二人とも、清水さんが本当に好きだったんだと思う。僕等が喧嘩をしてしまえば、後で清水さんもそれを知ってしまうかも知れない。そうなったら清水さんは哀しむし、僕等もそんなことは嫌だった」
「西谷さんも近藤さんも、本当に好きだったんですね。好きでなければ、本当に優しいことは考えられないと思います」
「ありがとう」
「私は行きますね」
女の子は立ち上がると、浩二に向かって深々と一礼をした。
「友達を待ってたんじゃなかったのかい?」
「いえ、懐かしくなって会いたくなったんです。今日はあなたに会ってこんなお話を聞くことが出来て、本当に嬉しかったです」
浩二が何かを言う前に、女の子は石段を駆け下りた。祭りから洩れてくる光を背中に最後に笑い、そしてありがとう、と唇を動かした。
入れ違いに翔平が現れた。手にはパックを三つ持っている。
腰を浮かし口を開きかけたままの浩二を見遣ると、不思議そうな顔をし「何を見てるんだ?」と尋ねた。
「いや……」
浩二は口を噤んだ。今の子どもは何だったのだろうと思い、去っていった方向を見遣り、ぽっかりと浮かんだ月に視線を向け、湯気の内側に貼り付いているパックを見つめ、そしてから口を開いた。
「清水郁子の子どもがさっきまで居たんだよ。さっき俺が迷子じゃないかって言ってた子ども、お前と入れ違いになったかも知れないけど、あの清水郁子の娘だったんだ」
「は?」
予想していた返事は浩二の脳裏から投げ出されたまま、戻ってこなかった。
「何を言ってるんだ、お前。寝惚けたのか? 清水さんに子どもなんて居るわけ無いだろう、彼女はもう亡くなってるんだから」
言葉を理解するのに、たっぷり十秒、自分自身の感覚では数分に近い時間を、浩二は要した。鼓膜から脳髄へ、そして首の裏側の方へと降りてきた言葉が、腹の奥深くでゆっくりと消化されていく。
先程まで女の子の座っていた所とちょうど同じ場所に、翔平は腰を下ろした。
「……知らなかったのか。知ってたと思ってた」
翔平は、彼女が一昨年に亡くなっていたこと伝えた。行き違いにより伝え損ねられていた話を、浩二は今初めて教えられた。彼女は急病にて入院し、そのまま退院することもなく息を引き取っていたと言うことを。未婚であり、ましてや子どもなどいなかったと言うことも。
語られている間、信じられないと、譫言のように浩二は繰り返した。
「結局、夢だったのかな。それとも、単に俺の頭がおかしくなったのか、あの子が他人の空似だっただけなのか。でもそうでは無くて、今のは全部本当だったのか」
答えは知っていた。名乗ってもいない名前を口に出したときから、二人とも分かっていて分かっていない振りをしていたのだ。浩二の言葉は単なる確認作業だった。
「何だって良いじゃないか。それが喜ばれたんなら」
翔平らしい言葉だと思い、でも違うかな、と浩二は心に呟いた。何がと聞かれても答えに困るけれど、彼女がもし清水郁子なら、何でこの場所に来たのか、それを聞いておかないと話しを終えたことにはならない。
「たこ焼きも買って来たんだ、食うか?」
頷くと、浩二は爪楊枝を手に取り、一口運んだ。
熱さと共に、懐かしい、何一つ変わっていない味が口中に広がる。
「墓参り、明日にでも行ってみるか」
あの指輪は押し入れにしまわれているはずだ。
教科書を押し込んだ段ボール箱の上に置かれた小箱の中で、ひびの入ったプラスチックのケースに包まれて、今も昔と同じ姿のままで眠っている。墓参りに行くのならそれを持っていこうと思い、浩二はたこ焼きをもう一つ口に含んだ。