ニギリメシ、と呼ばれている禿頭の男がいた。ニギリメシ、或いはニギリメシのお爺ちゃんという以外の呼び方を子ども達は知らない。近くには最近校舎を新しくしたばかりの小学校があり、彼はそこから下校の鐘が流れてくるのを聞くと山盛りの握り飯と共に玄関口へ出てくる。小腹を空かせた悪童から、仲良く喋って帰っている女の子達まで皆その辺りのタイミングは心得ていて、彼の細君の出す傘付きのテーブルにそれが置かれたところを見計らって通りがかり、彼に「お腹が空いてたら寄って食べてきなさい」と上手に声を掛けられるのである。
コンビニに並べられているものを見るまでもなく、握り飯の具も昔とは比べ物にならないくらい種々あったりするが、ニギリメシの家ではずっと昔から海苔ですっぽり包んだものへ塩を振っただけのものを出していた。具も、二つに一つ梅干が入っているだけである。それでも、校区の子ども達は皆ニギリメシの握り飯が一番美味しいと思っていた。何より、拳大より少し小さなそれを頬張っているとき、横で顔を綻ばせ食べる様子を見守っている彼のことを、誰もが好きだったのである。
彼の家の表札には安岡と書かれている。ブロック塀で囲われた木造の家は如何にも年季が入っていて、次に大きな台風でも来たら屋根瓦なんぞ吹き飛んでしまいやしないかと心配されるような古くさい作りをしていた。庭には屋根より少し背高の辛夷の木が植えられていて、春先には見事な白い花弁を枝に散らす。
彼ら夫婦が偶々空き家になっていたここを買い取り引っ越してきたのは、もう二十年も前のことになる。近所に住む自治会長の横山は安岡のことを退役軍人だったらしいと言い触らしていたが、彼は誰も知らないことについて知ったかぶりをして吹聴して回り、後に嘘だったと露見する悪癖を持っていたので誰も特に気に留めてはいなかった。ただ彼の物静かで落ち着き払った態度を見て、成る程と思った者がいたことも確かである。
細君のほうは近所付き合いも決して悪くなかったのだが、矢張り詳しいことについては要領を得て答えることはなく、肝心の安岡本人はといえばそれに輪を掛けて自分のことについて話したがらない人間だった。
七月の、七夕もとうに過ぎた下旬の頃のことだった。玄関先から戻ってきた安岡は、どっかと腰を下ろしあぐらをかくと大きな溜息をついた。やや面長な顔に刻まれた皺が、より一層深くなる。
「参ったな」
「どうだったんです?」
針仕事をしていた安岡の細君が、老眼鏡を外した目をしょぼつかせながら尋ねた。
「まただ。握り飯を配るのを止めろと」
「やっぱり、あっちの方ですか」
安岡は黙って頷いた。あっちの方とは山を削って造成された住宅地のことで、東京に通勤するだけでこの町には何の縁もゆかりも無いような家族連れが多く住んでいた。文句をつけに来たのはそこに住んでいる主婦達の団体である。子どもが下校途中に通学路を多少逸れてまでも寄り道をし、お握りなんぞを食べて帰るのは自分達の教育方針に反することであるので即刻止めて欲しいと言う、言葉こそ丁寧であったが長々と口上を述べられた中の論旨と言えばそれだけだった。
「止めさせろって。今までそんなことを言われたことは無かったんですけどねえ」
「先生達にも何も言われんかったんだがな」
「それどころか、感謝されたりしてましたよ」
部屋にぐるりと貼られている感謝状も今日の気分を通しては多少色褪せて見える。今まで良かれと思ってやってきたことに悶着をつけられ、二人の困惑は深かった。昨日今日のことならばいざ知らず、二十年近くも続けていることを止めろというのは、生き甲斐を奪われることである。
「それで、止めるんですか」
「冗談を言うな。止められるわけがないだろう」
安岡は苦虫を噛み潰したような表情を作り、黙り込んだ。
止めないどころか、死ぬまで続けるつもりでいる。だが、自分のしている行為を快く思っていない人物が一人でもいるのは辛かった。握り飯を食べてはいけないと言われた子は、どんな思いをしているのか。一方的で理不尽な不公平は、心を傷めるだけだろう。友達も食べているのに何故自分だけが怒られているとも思うだろう。
「また今度、話をしにいくさ」
「そうですか」
「子供たちのためだと思っているからやって来たことだ。ゆっくり腰を据えて付き合っていけば分かってくれることもあるだろう」
細君ははいと頷いた。
「丁度夏休みにもなるしな」
日焼けして変色した壁へ掲げられている日めくりカレンダーを見上げ、安岡は寂しげに呟いた。
「そうですね」
今日が終業式だった。夏休みに入ると、握り飯を配る機会はずっと少なくなる。二人にとっては何よりも寂しい時期に入る。
風に吹かれた窓硝子がガタガタと鳴った。
「今日は、風が大分強いな」
「そう言えば、台風が来てるんでしたね」
小笠原の洋上辺りで迷走を続けていた豆台風が何に気を引かれたのか一転北上、関東地方に上陸する恐れが高いと言うことで、ニュースではしきりに注意するよう呼びかけていた。二人は、そんなこともすっかり忘れていた。
「まあ、大したことは無いらしいですから」
「本当に大丈夫かな」
「西側になるみたいですし」さも心配そうに眉をひそめる安岡に細君は苦笑して答えると、すっと立ち台所へ入った。
安岡は、暇潰しに野球中継でも見ようかとリモコンを手に取った。
と、カタンと小さな音が耳に入った。
「今、何か音がしなかったか」
「風でしょう?」
どうにも気になって、安岡は目を閉じ耳をそばだててみた。玄関の戸を誰かが叩いているような気がして仕方ない。それとも樋が壊れていたのか。ほんの些細なことでも、一度気にし出すと心配になって忘れられない性分だった。
「少し外を見てくる」
「気を付けて下さいよ」
台所から、声だけが返ってきた。
扉を開けると、それまで低いうなり声を上げているだけだった風がにわかに吼え始めた。雨はそれほど酷くないが、風がとにかくうるさい。
「どなたですか」
返答はなく、安岡のかけた声は風が持っていってしまった。もう一度尋ねてみるが、結果は同じことだった。
「気のせいだったかな」街灯の光も風雨にさらされ朧に滲んで揺れている。こんな夜にわざわざ訪れようとする酔狂な人間にはあまり縁がない。しかし念のためと、スリッパを突っかけて玄関先まで出てみた。
辛夷の木は安岡が越してきてから植えたものだ。同じ春の木でも桜や梅とは違いひっそりと咲く。あまり注目もされない。香りもするが金木犀などのようにはしつこくない。それが好きだった。
その大事な辛夷の木の下に誰かが立っているような気がした。幽霊の類を気にしたことはない。ただ、誰も居ないどころか怪しい影一つ見えないそこが、妙に妖しく感じられた。
「そこに居るのか?」
声に、少しだけ険が混じった。返事はない。こんな粗末な家に泥棒というわけでもないだろうが、野良猫でも迷い込んだのか。だとしたら家に上げて、台風が過ぎるのを待たせてあげた方が良いだろう。適当な理由をつけながら、安岡は年甲斐もない好奇心に背中を押されて外へ出た。
闇にすっぽりと包まれたそちらへ向かって、目を凝らしてみる。
――居る。
ぞっとするよりも先に、身が引き締まった。柳や桜ならともかく、辛夷の下に幽霊は似合わないだろうに。冗談とも本心から出た言葉とも分からないような台詞も頭を走る。もう二三歩、雨に濡れるにも構わず近付いた。
にゃああんと声が聞こえて、安岡の表情が緩んだ。それ以外に何があるものかと、軽く苦笑混じりの息を吐く。
「ほら、おいで。今日はうちで泊まって行きなさい」
闇からのっそり這い出てきた黒猫は、鬱陶しいような目つきで安岡を見た。昏い淵から這い出てきたような目つきに、睨まれたこちらの方が怯んでしまう。
――前にも、こんなことがあった。
その目を見ていると、ふとそんな言葉が染み出てきた。どうして、そんな考えが出てくるのか。逡巡する安岡をよそに、耳から尻尾の毛先までずぶ濡れになった体がのそりと踏み出し、あんたには興味がないとばかりにそのまま道路の方へ歩み去ろうとする。
「あ、こら」思わず、安岡は駆け寄ろうとした。
途端、視界が反転した。風の音も一瞬止んだ。しまった。真っ直ぐ突き出した手は雨粒を握っただけだった。
――そうだ、あの時もこんな夜だったんだ。
何もかも宙ぶらりんになってしまった瞬間、安岡は突如そんなことを思い出した。抱き上げられた黒い仔猫。ずぶ濡れになった二つの小さな体。じっと怨めしそうに見上げる視線は、さっきの猫のものとよく似ていた。
――何故、こんなことを思い出す。
浮くような感覚が終わり、重力がずしりと体にのしかかった。突き出した手では体を庇うことも出来ず、安岡は腰の方から落ちた。思わず小さな声が出る。強かに打ち付けた腰の痛みに呻吟しながら、それでも厖とした視線をさまよわせただただ居なくなってしまったもののことを考えていた。
――しかし、何で、今更。
声に出そうとしたが、開いた口から漏れ出るのはうめき声だけだった。雨粒がいくつか口の中で跳ね、その冷たさに安岡は喉を反らせた。
右となりに住む竹内の老婦人が垣根越しに細君へ声をかけたのは、それから三四日した後の、水溜りももうすっかり枯れあがってしまった晴れの日のことだった。
「どうですか、ご主人さんの調子は」
「ええ」細君は子どもの悪戯を見つけたときのような、目を細めた笑い方をした。「もう、大分良いんですけどね」
安岡が台風の日に外へ出て転んだというのは、次の日にはもう近所中に広まっていた。
「猫を追い掛けて転んでしまっただなんて、恥ずかしい話ですよ。怪我をしたことで、うちの人も何だか弱気になってしまったみたいで。こう言うとき、いつもみたいに子ども達の顔を見ればまた元気にもなるんでしょうけど」
「もう夏休みですからね」神妙そうに頷いてから、思い出したように言葉を付け加える。
「そう言えば、造成地の方のお母さん方、この前もいらしたと聞きましたけど」
「ええ」
「台風のあった日にでしょう。いくら電話で約束をしていたからって、随分と非常識な話じゃないですか。都会の人は何を考えてるか分からないところがありますねえ」
「でもあれは、主人のおつとめみたいなものですから。誰が何を言おうと止めないとは思いますけどね」
「私たちも、安岡さんが居ないと寂しくて仕方ないでしょうね。うちの孫も、あれで育ててもらったようなものですから」
二人は視線を合わせると快活に笑った。天道虫が一匹、二人の話に聞き入りでもしているのか物干し竿の天辺に止まったままじっと小さな体を置いている。
「少し出かけてくる」居間の方から掛けられた声に細君ははいとだけ返し、あの調子ですからとまた笑った。
ハンチング帽を被っていても、夏の強い日差しは容赦なく安岡の老体へ襲いかかってくる。その強さを感じた途端、くらりと、目眩のような感覚を覚えた。松葉杖を持っている手に、思わず力が入る。
――医者に言われた通り、体が老いたのかな。
少しやるせない思いもしたが、歩を進めていくと、体が幾分軽くなった感じになった。最初は周囲をぐるりとするだけのつもりだったが、それで、公園まで行こうという気になった。
――しかし、こんな怪我をするとは思わなかった。若い頃は考えもしなかったな、夏を越すことの難しさなど。
十分くらい歩いたところにある児童公園までたどり着くと、安岡はベンチに座りハンカチで額の汗を拭った。体が火照ってきて、シャツの背中がべっとり貼り付いたようになる。扇子でも持ってきておけば良かった、と安岡は後悔した。
ちょうどお昼を食べに帰ったのか、砂場にもブランコにも遊んでいる子どもの姿はなかった。安岡は木製のベンチに深く体を預けた。そのままゆっくりと深呼吸をする。
その視界の端を、黒いものが過ぎった。見てみれば、豆台風の夜の黒猫が、砂場の方からひょこひょこと歩いてきていた。
「ああ、お前か」猫は相変わらず冷たい目で安岡を見つめている。今までに見掛けたことのない猫だった。何処かから流れ着いてきたのだろうか。
「お前のせいじゃないから安心しなさい」
声を掛けても、逃げる様子はなかった。野良暮らしが長かったせいで、人間というものの心の機微まで分かり切っているのかも知れない。面白い猫だと思う。安岡は、試みに話をしてみたくなった。
「お前はどこから来たんだい」「塒はいつも何処にしてるんだ」「兄弟はどうしてるんだろうな」「どんな人間に邪険にされ、どんな人間に可愛がられた?」「誰かに餌をもらったりはしてるのか」「お腹が減ったときには、うちに来ると良い」「お前は何年生きてきて、あと何年生きるのかな」
猫に動く様子は無かった。何を考えているのか、行儀悪くベンチの短い影に寝そべりながら、時折耳をぴくりぴくり動かしている。
「お前は、息子のことを知っているのかな」
何も反応も無かったが、安岡は少し背中を丸めるととても柔らかい目をして猫を見つめた。昔の安岡のみしか知らない人間には、信じがたいような表情だった。
「土地を変えれば許されると思ったのだが、違うのかな。現に、お前がこうして来ている」
黒猫は大儀そうに尻尾をたらして居た。
「妻は責めなかったよ。ただの一度も、だ。正面切って責めてくれる者は誰も居なかった。いや、今になってやっと責めてくれているんだったな。そうだろう?」
最後の質問を聞くと急にぎゃあと鳴いて走り去っていってしまった。
その背骨の浮き出た背中が消えてしまうまで見届けると、帰ろうかと思い、安岡は再び松葉杖を手に取った。傷めている右足に体重を乗せないようにして、ひょこひょこと来た道を戻る。影法師は、少し長くなっていた。
「あ、これは」
角を曲がったところで、自治会長の横山と正面から鉢合わせた。安岡に向かい会釈をする。安岡も軽く頷き返す。
「今日は暑いですね。夕方になって風が出てくれば良いけど」
あともう少しすれば、打ち水が撒かれて少しは涼しい風も吹くはずだ。町費を集めているらしく、達磨のような体型をした彼はタオルを握り締めているのとは逆の手にネズミ色の集金袋を持っていた。
「怪我の方はもう大丈夫なんですか」
「ええ、まあこの通り松葉杖ではありますが」
「次の台風のときには足を滑らせんように気を付けてくださいよ。私らも安岡さんが怪我したと知って随分心配したんですから」
頭頂部までつるりと禿げ上がった頭を撫でて、憎めない笑みを見せる。安岡はまた軽く頷く。じっと立っていると、背中にじわりと汗が滲み毛穴から熱気が噴き出てくるようだった。通りすがる者もいない。車が一台通れるだけの幅しかない路地で、二人は向かい合ったまま何となく互いに立ち去れずにいた。
「今年の祭りはいつですかね」
「再来週の土曜日ですよ。いつもと同じ、八月の第一土曜日に」
祭りのときの握り飯はどうしようか。子ども神輿を担ぎ終えて疲れ切った子ども達は、PTAの用意する冷や麦と安岡の握り飯を回し食いするのを恒としている。満足げな表情で口一杯に頬張る姿はしかし、もうずっと前のことのように感じられた。
「子ども達は今年も元気ですよ。少子化とか言われて、学校のクラスも一つ二つ減ったみたいですけれど、なかなかどうして活気がある」
「そうですか」
横山の体が腹と一緒に胸を張った。
「しかし、五年後、十年後となったらどうなってるんでしょうな。このままで居られるのか、多分色々と変わってしまってるんでしょう。それこそ、私たちみたいなもう若くない人間には想像も付かないくらいに」
安岡は遠い入道雲に視線を馳せた。十年後には米寿を迎えて九十にも届こうとしている。それまで、生きてはいられるのだろうか。
「あ、こんにちは」
チリンチリンとベルが鳴る。自転車で通りざま、男の子達の集団は皆申し合わせたようにニギリメシに向かって頭を下げると、そのまま陽炎のゆらりと立つ中を走っていった。
「元気に遊ぶんだぞ」横山は背中に弾ませた声をかける。
「礼儀正しいですな」
「そうですね」
何も変わりはない、長年見てきた子ども達だった。
「では、私はこれで。祭りは楽しみにしていてください」横山が会釈をして、安岡も軽く頷き返した。
横山と別れると、安岡は寄り道はせずに玄関を潜った。
「ただいま」と声を掛けたが、買い物にでも出掛けたのか返事はこない。杖を下駄箱の横に立てかけると、壁で体を支えながら居間へ入り足を投げ出すようにして座った。家の中は気味が悪くなるほどに静かである。
何気なく動かした手に感触が当たって、安岡はそちらの方へ目をやった。どうやって歩いてきたのか、畳の縫い目に生米が一粒挟まっていた。安岡はそれをほじくりだすと、左手の真中のくぼみに乗せて押し包むように拳を閉じた。そのまま行儀悪く畳の上へ大の字に寝転がる。扇風機の羽が忙しなく動いている。風鈴の音は聞こえなかった。
仰向けになると、色とりどりの紙が視界に入った。毎年卒業生から贈られている画用紙で作られた表彰状が、安岡の行ってきたことを唯一形として示しているものだ。最初のうちはそんな大袈裟なものは要らないと思っていたが、最近では楽しみの一つになってしまっている。
短いうちに二十年が過ぎてしまった、と思う。横山の言う五年後十年後、そして自分が死ぬ瞬間もさ程遠くないところに準備されているのだろう。このままこの土地で朽ち果てたら、皆は悲しんでくれるのだろうか。人が多数訪れ、昔を懐かしみながら弔っている様を安岡は想像した。もう既に後の供養をしてもらうあての無い自分にとってそれは、一瞬に過ぎてしまうことではあってもひどく幸せな葬儀になるに違いない。
目尻が柔和に下がっているのを安岡は感じていた。昔はこういう顔を作ることもできなかったのだから、この土地での新しい生活は間違った選択ではなかったのだろう。
だが、それは本当に叶ってくれるのだろうか。
間違った選択などというネガティブな言葉を思い付いたせいか、ふと、考えに魔が差した。横山の話が、冷たい表情をした主婦達の顔が閉じ込めていたはずの底の方から浮かび上がってくる。握り飯を配れなくなったとき、果たして今のように慕われるのだろうか。手のひらを返すように態度が豹変しないという保証は、どこにもない。
何を許されたつもりになっていたのか。決して許されたわけではないのだ。
他人に好かれない人生を送ってきたからこそ、新しい人間としてやり直そうと思って生きてきた。それが、また元の木阿弥に戻ってしまうのか。気弱さも手伝ってか、普段なら気にも留めないような臆病な疑問が堰を切ったように溢れ出してくる。心臓の鼓動が信じられないくらいに早くなるのを、安岡は感じていた。
今度は親類縁者すら誰も居ない、孤独な死の光景が脳裏を過ぎる。先程とは打って変わった、殺風景なものである。ぐるりと部屋を巡っている紙切れはとっくに色あせ、ごくごく限られた者だけが事務的に彼を弔問して去っていく。
脇からつと汗が流れ落ち、背骨が鋭く尖った神経にかきむしられた。
あの夜、辛夷の下に立ち見透かすような視線を送っていた視線の主が、他ならぬ自分自身であったような気がしてくる。もしかして、じっと見つめていたあの視線は自分のこれからの行く末を暗示していたのではないか。白いTシャツが雨に濡れて行くにも構わず、あの日と同じような厖とした視線を彷徨わせている。そこには、誰も居ない。妻も息子も子ども達もなく、ただ一人で今にも落ちようかとしている花弁を見上げている。寄り添おうとしてくれるものはない。ひたすら待たされるのだ、何一つ残されることのない、無価値な死の訪れを。
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だからあの猫が来たのではないのか。
かっと見開かれた目尻からは涙が溢れ落ち、喉は大きく開かれていた。そんな終わりは避けたい。このままの人生の先に待ち構えている落とし穴を避けるには、どうしたら良いのか。心臓が限界を超えて破裂しそうに暴れる。息苦しいという感覚はもうとうに越えている。汗ばんだ手の平から米粒がこぼれ落ちていることなど、体が金縛りのように動かなくなった安岡には知る由もなかった。錯乱しつつある彼にとってもうそれは空疎な世界を取り留めもなく動き続ける虚像ではなく、彼のイメージそのままの現実に起こっている実像だった。
お盆前の登校日、子ども達がじりじりと肌を焼く陽射しの中を歩いてきたとき、皆ニギリメシの家が無くなっていることに気付いた。ごくごく近所の者は、各々の教室でニギリメシの家が慌しく引っ越していったことを話したが、詳しい事情まで知っている者となると流石に誰も居なかった。行き先は杳として知れなかった。夏休みに何をして遊んだかより、ニギリメシの安否の方が重要な話題になった。
放課後になるとすぐに、子ども達は空き地となった草っ原へ三々五々集まってきた。辛夷の木も、ブロック塀も消しゴムをかけた後のように綺麗さっぱり消え去っていた。駐車場になるにしろ新しい家が建つにしろ、早くも雑草が生い茂ろうとしているここにニギリメシが二度と戻ってこないだろうことは、大半の者が子どもなりの鋭い嗅覚で感じ取っていた。
太陽が雲に隠れ、切り取られたような影がぽつんと浮かんだ。その中にもはや、山盛りにされた白い握り飯の姿は無かった。町中の子どもも住宅地の子どもも皆、しばらくその有様を見た後で家路へついていった。ニギリメシについて言及しようとする者など誰も居なかった。その様はさながら葬列だった。大半の子ども達にとってそれは間違いなく、初めて体験する身内の不幸だった。