「私は夢を探している」
 とある夜、壁にかかっている猫のポートレートへちらちらと視線を走らせながら、老人はそう切り出した。
「遠い昔、私も追い求めたものがある。そして見つけたはずなのだ。しかし、肝心の記憶は、覚めた夢のように忘れられてしまった。だから今でも探している、忘れ去られてしまった記憶の眠るここで。どう思うかな、君は」
 遠くの誰かへ呼びかけてきた声が、急に僕の元へ引き付けられた。
「おかしいと思うかね」
「いえ」
「そうか。まあここに辿り着いた者ならそう思うのかも知れないな」
 老人は自分の左手にうずたかく積まれている書籍の中から、紫色の装丁を施された比較的新しい本を一冊取り出した。
「これが何か分かるかね」
「いいえ」
「忘れた記憶と同時に、私にはこの場所で得た知識もある。持って行きなさい。いつかは役に立つこともあるだろう」
 僕は差し出されたそれを受け取った。ラベンダーのような薄紫に染められたその本には、表題も何もつけられてはいなかった。
「まだ新しいみたいなのに、表には何も書かれていないんですね」
「表紙だけではない。中身も無い本だ」
 言われてページを繰ってみると、確かに、その本には一文字の記述もなされてはいなかった。
「それは読めない本じゃない。書けない本でもある」
「読むことも書くことも出来ない本に意味なんてあるんですか?」
「いつか分かる。ずっと持ち続けていると良い」
 僕は礼を言うと、その本を鞄の一番奥底にしまいこんだ。
「あなたは行かないんですか?」
「私はここで寂しさを食むことに慣れすぎた。それに、本当は、もう良いのだよ」
 彼の目が、またポートレートへ揺れて、僅かな微笑を作った。
「少し眠くなってきた。他に気に入った本があったら借りていくと良い」
 老人はそう告げると、老眼鏡を卓上に置き、椅子に腰を埋めるとゆっくり目をつぶった。僕は彼の微かな寝息を聞きながら、持って行く本を選別するべく書架の方へと足を運んだ。彼は再び夢を探しに出かけたのだ。もう、次の日にはこの図書館へ足を踏み入れることが出来ないだろうことは、何となく理解していた。

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