「金魚の夢」

 前編

 一

 忠夫は、昔から金魚が好きだった。きっかけは子どもの頃に連れて行ってもらった縁日だと記憶している。兄たちが射的に興じ普段ではお目に掛かれない食べ物に釣られるのとは対称的に、忠夫はもらった小遣いの殆ど全てを金魚すくいに費やすことを常としていた。
 馬鹿だな、と笑われていた。金魚なんてすぐ死んじゃって面白くもないのに。そんなのにお金使うくらいなら、もっと面白いもの買えよ。
 だが、兄たちも金魚が嫌いというわけではなかった。金魚鉢の中で泳ぐ金魚を眺めたり水の中に指を突っ込んで遊ぶ姿は、夏の頃は忠夫もよく見かけていた。
 その代わり、夏が終われば見向きもされなかった。
 こまめに水を換えたり餌をやったりしていたから金魚は割と長生きした。それでも狭い中で沢山飼っているせいか子ども達に遊ばれるストレスからか、死ぬ金魚も多かった。どれだけの金魚をどれだけ長生きさせるかは、忠夫の密かな目標だった。死んだ金魚の墓標には、死んだときの年を示すために赤い一本線を引いた。一番長生きをした大きな金魚が死んで六本目の赤線が引かれたとき、忠夫は中学生になり、その頃からは金魚すくいをすることも金魚を飼うこともしなくなった。
 忠夫は自分のことを馬鹿だと思っていた。事ある毎に馬鹿だ馬鹿だと言われ続けていたからである。忠夫の中に生じていたコンプレックスは、兄たちの大して良くもない成績をとても良いものと受け止め直させ、自分は兄たちのように賢くはないと思い込ませていた。事実、消極的な忠夫の性格は教師に受けが良くなく、成績は中の上くらいが指定席であった。
 そうではないと言うことを知ったのは、中学校に入ってからである。小学校の曖昧な成績付けとは違い、試験の結果が厳密な意味を持つ中学校では、忠夫の学年順位は常に上の部類に位置した。忠夫は、掲示板に貼り出された紙から自分の名前を上から三番目までに探し出し、一つ上の賢治兄ィの名を探すために下の方から見ていくという行為に、僅かながらの優越感を覚えていた。
 それが全てである。相変わらず、忠夫は兄弟のヒエラルキーに於いて末弟として在るべき位置よりも遙か下に置かれていた。勉強一つでは、十数年間の人生で培われたそれは揺るぎもしなかったのである。大きい方、三つ年上の陽輔兄ィは野球部時代セカンドを守る三番打者であったし、賢治兄ィは陸上部で長距離走のエースであるのだが、忠夫は仕方無しに入った卓球部のお荷物だった。猫背の背中を丸めて、部活にも出ずに真っ直ぐ帰ることの方が多かった。顔にも、愁いのある影が付きまとって離れなかった。
 中学生という年齢に相応しく、忠夫にも兄たちに関わりのない自分だけの世界が作られた。だが、矢張りその中にいても忠夫の心が本当の意味で安まることはなかった。劣等感と共に日々を過ごしすぎて、常に心の何処かに兄たちの存在があったのである。
 いつか。いつか、兄たちを断ち切らねばならない。
 分かってはいたが、自信はなかった。それをしようとすれば、兄たちと肩を並べ追い越さなければならないから。忠夫にとっての兄たちの存在は、それ程までに絶対であった。
 しかしその時は訪れることとなる。
 四つ上の陽輔は中卒で上京、所謂「金の卵」として就職していた。しかし陽輔とは違い、賢治は高校の陸上部でも活躍することを夢見、受験することを切望していた。高校進学率が五割前後を推移していた時代である。家はそれ程裕福でなかったから、バス通学か下宿をしなければならない高校進学をできるのは一人が精一杯で、その時点で忠夫は進学を諦めていた。担任にもその旨は既に打ち明けていた。
 戦わずして負けることを忠夫は望んだ。そちらの方が気が楽だったからだ。担任に諦めるなと言われても、笑って首を横に振るだけでいた。
 正月の近かったある日、外に粉雪が舞い、旧い白黒テレビの音が無造作に部屋を通り抜けていく中で、両親は二人に対し賢治には受験させるつもりがないことを告げた。
 その時の忠夫の心境については、語りがたいものがあった。突如として現れた糸は、望もうとしても望むことすら出来なかった奇跡の糸だったのだから。まるで小学校の図書室で読んだ、芥川龍之介の蜘蛛の糸に出てくる健陀多の心地のようであった。
 当然ながら、賢治は激昂した。
「俺は高校に行きたいんだ」
 賢治の成績では近くの普通科高校の入学試験に合格するかどうかは微妙だと言うことを、両親は担任から聞き及んでいた。そして忠夫については、このまま順調にいけば県内でもトップクラスの高校へ楽々合格できるだろうと説明されていた。
 今までの生活の中での力関係など何ら関係せず、試験の成績、ただそれだけが二人の明暗を分けた。
「お前だって分かってるだろう、うちには二人も通わせる余裕はないんだ」
 職務に関して実直なだけが取り柄の、見た目よりは年老いている郵便局員は、忠夫とよく似た姿で背中を丸めながら呟いた。
「諦めろ」
「諦めてたまっかよ」
 やや口どもり気味になりながら、賢治は唾を飛ばし懸命に食い下がった。
「奨学金があるだろ」
「それだけじゃあ足りないんだ。兄貴の事業が失敗したときの借金はうちにもおっ被さってるんだ、それがまだ半分も残ってる。陽輔のしてくれている仕送りも、全部それに吸い取られてるんだ」
「陸上部、続けたいんだよ。高校の先生にも、お前には素質がある、これからを期待してるって言われてんだ」
「じゃあその先生に謝っておけ。どうせ走ることでおまんま食えるわけじゃ無いんだ、見切るなら早い内にしておけ」
 それは懸案事項ではなく決定事項であるのだということに気付き、何を言っても無駄なのだという絶望に心を打ちひしがれた賢治は最後に言い放った。
「何で俺が忠夫なんかのために諦めなきゃいけねぇんだ」
 興奮のあまり血走った目をこれでもかと見開きながら睨み付ける賢治を見て、忠夫の心臓の裏側の方ををちらりと影が過ぎった。
「俺は、高校行きたい。賢治兄ィには悪いけど、俺は高校に行って勉強したいんだ」
 今まで思ったこともない台詞は、するりと喉を通っていった。
 賢治は目尻に涙を浮かべ、そうか、そうなのかよと罵り声をあげて忠夫に殴りかかった。頬にめり込んだ拳は、無性に、とても哀しいものに感じられた。
 なんか、呼ばわりしたのがいけないんだ。自己弁護の精神はそう解釈した。賢治兄ィがもっと俺を労った言葉を喋っていれば俺だって進学を兄ィに譲ったんだ。
 頬を押さえることもなくじっと見据える忠夫に嫌気が差したのか、賢治は無言のまま立ち上がると部屋を出ていった。
 賢治は、中学卒業と同時に住み慣れた実家を家出同然で飛び出し、忠夫は今や三人住まいとなった自宅で勉強のための一人部屋を与えられた。
 忠夫は、この時初めて兄たちに並んだと思うことが出来た。



 二

 夢だと思った。
 でも、夢でないことは知っていた。
 幽霊かと思った。
 しかし、幽霊でないことも分かっていた。
 ふわふわと漂う金魚が、霧の中を泳ぎながら近付いてくる。その「丸に点」な瞳は、忠夫の視線を虚ろに弾き返した。何か目的があってのことなのか、それともただ流されているだけなのか。
「流されている? 何に?」
 自分自身への問いかけを、忠夫は皮肉めいた調子で否定した。
「──たかが金魚のことでわざわざ考え込むなんて、俺ァどうかしちまったのかな」
 それ以外のことは、何もしようとしない。或いは、する方法を知らないのかも知れない。水槽で泳いでいる姿ではなく、玩具のような奇妙な形を取っているから、そんな類推も生まれた。
「寝が足りないのかもな、何しろ最近はずっと働き詰めだ。いや、そうに違いない」
 そうやって呟くことが、言い様のない恐怖心を余所にやろうと必死のあまりの方便であることは、他ならぬ忠夫自身がよく知っている。
 一体、どういう経緯で金魚が現れたのかすらよく分からない。先程までは確かにタクシーに乗っていたはずなのだ。何が理由でこんな事が起こっているのか、理解できないことは恐ろしかった。
 事実、金魚が突如として彼の眼前に現れると、先程までの自嘲めいた調子も何処かへ吹き飛んでしまった。
 雲の中に身を置いていると錯覚してしまうような濃霧の中にぷかぷかと浮かんでいる金魚は、小学生がサインペンで付けた落書きのような瞳をじっ…と忠夫に寄せている。
「なっ、何だよ。お前は一体何がしたいんだ──」
 ただ一色──それも水墨画のような濃淡すら存在しない純粋な黒──は、忠夫の思考回路を混乱に陥れるには充分だった。
 じっと見つめられているだけで、「たかが金魚」と口にしたことを懺悔し、許しを請わねばならぬように思えてくる。
(恐ろしい……)と、腹の中で呟いた。
 激しい感情の混ざった目は、今までの人生の中で幾度も目の当たりにしている。
 だが、これ程までに恐ろしいと思わせる目には未だ遭ったことがなかった。
 人間ならば、誰でも瞳に色を持っている。茶色とか青色とか言うのではなくて、その人間の人柄を表す色だ。喜悦や狂気は、すぐに表に出る。穏やかさのようなものは少し観察すれば分かる。ポーカーフェイスとされている人物でも丹念に観察していれば何処かから分かることだ。該当しないのは、映すべきものを失ってしまった人間だけだろう。
 この生き物なのかすら分からない金魚は、大まかに分類すれば一番最後、三番目のタイプだった。だが、本質に於いて違う。そこにあるのは単なる「無」ではなく、底知れぬ暗さなのだ。深い深い海の底、誰にも見つけてもらえずにひっそりと眠る海蛇のように。そして一度油断をすれば、それは鎌首をもたげて牙を剥く。
 決して危害を加えようとしたわけではない。
 しかし、忠夫は勝手に被害妄想を抱いていた。大口を開けて金魚が襲ってくる予感に怯え、金縛りのようにその場に縛り付けられていた。彼自身の心臓の鼓動が聞こえていなければ、そしてまた霧がゆったりと動いていなければ、時すら止まっていると錯覚しただろう。
 だが、時間の流れの有無に関わらず、そこは牢獄だった。四方を壁で囲われているわけでも無し、頭上には星が霧の幕を通してぼぉ…っと輝いている。それでも逃げられないと言うのは、まさに蛇に睨まれた蛙のようだった。
「なあ、答えてくれよ」
 問う声に力は籠もっていなかった。ただ言葉を発することで終わりを知りたかった。何かを話していれば──何かをしていれば、終わりは確実に近付いてくるような気がしたのだ。永遠を予感することは、耐え難かった。



 三

「島津君」
 呼び止められる声に、忠夫は振り向いた。中学三年生の冬、ちょうどかじかんだ手をポケットに突っ込み、家路へ就こうと下駄箱に降りたところである。教室内ではストーブが焚かれていたがそれは忠夫の席からは遠く、今日の放課後の勉強は他の級友たちよりも早めに切り上げていた。
「今、帰るところなの?」
 その級友の一人──川上奈津子は、鼻の頭を少し赤くして小柄な体にぴったりと来る小さな段ボール箱を抱えていた。
「あ、うん」
「勉強か──受験組は大変だね」
 時刻はもう五時である。陽は傾き地に倒れ臥しようとし、構内に侵入する光は力無く弱々しかった。レプリカの彫像の作る影に隠されてしまっている笑みを見つめながら、忠夫は何で川上さんが残っているのだろうと、不思議に思う。受験組でもない生徒は、とっくに帰って一人も残っていないはずだった。
 視線の先を見て、奈津子は忠夫の疑問を間違えて気付いたようだった。
「これね、卒業アルバム。見本だけ出来たのを、職員室に持って行くところなの」
 軽く上下される段ボール箱を見て、卒業アルバムのクラス委員が彼女であったことを、忠夫はやっと思い出していた。川上さんは確か家業を手伝うから、一番手が空いていたので立候補したのだと。
「何か手伝うことある?」
「ううん、これを持って行くだけだから、気にしないで先に帰っちゃっていいよ」
 忠夫が言われたとおり先に、しかしわざとのんびり歩いていると、カタカタと音がして、奈津子が走って追いついてきた。それは期待していたことだったが、些か意外なことでもあった。忠夫と奈津子は別段仲がよいという訳でもなく、今までに面と向かって話をしたことなど無論無かった。
「もう暗いから、島津君に送ってもらうね」
 そばかすを残した少女らしい笑顔で告げると、狭い道なのに奈津子は無理矢理横に並んだ。忠夫が少し体をずらすと、通学靴は道端にうっすらと残る雪を踏んだ。
 奈津子の家を忠夫は知っていた。二丁先にある酒屋の隣の家がそれである。玄関先まできちんと送るのならば、少しばかり遠回りしなければならない。だがそうしようと忠夫は決めていた。この薄暮の中ではすぐに誰とは分からないだろうから、誰かに見つかってからかわれることも多分無い。
 学校から延びる道は不気味なくらいの静けさに覆われていた。遠くから聞こえるはずの音は、雪にでも喰われてしまったのか、耳を打ってこない。二人の話し声が聞こえる他は、静かな静かな下校道だった。
「島津君は変わったよね」
「え?」
 突然切り出された話に、忠夫は怪訝そうな声をあげた。
「去年と今年と、島津は違うって皆言ってるよ。成績もずっと伸びてるし、私も島津君は変わったって思う。巧く説明できないんだけど……うん、やっていることの一つ一つが自信満々て言うのかな、そんな感じがしてて」
 それはそうなのだろうと、忠夫は心の中で頷いた。万事に対する自信というものは、自分自身でも感じていることである。いつも頭の上にいた兄ィ達の影を見なくても良いようになってから、忠夫は過小評価していた自分の能力に関して正当な判断を下せるようになっていた。変わったというのは、それに伴う当然の結果なのだ。
 ただ一瞬、音沙汰無い賢治兄ィのことを忠夫は思い出した。葉書一つも寄越してこない賢治のことを母親はいつも心配していたが、父親は意固地になったように無関心を装い続けていた。母親も誰かを責めるようなことはしなかったが、その顔を見る度、忠夫の心を針がちくりと刺した。成績の伸びは、賢治兄ィへの済まないという気持ちも多分にあったが、全てを忘れられるのは何かに集中している時だけという、情けない理由にも幾分依拠していた。
「変わっても、意味がないこともあるよ。もしかしたら、変わらない方が良かったのかも知れない。僕が変わらなければうちの家族は兄ィも僕も今まで通りにやって来れたんだ。足りなくても、寂しい思いをすることはなかったんだと思う」
 奈津子は静かに頷いた。
「よく分からないや。そんなこといきなり言われても」
「ごめん。そうだね」
 奈津子は忠夫の方を剥くと少し苦笑いして、そして白い息をはぁっと吐き出した。
「うん、でも島津君のは意味があると思うよ」
「そうかな」
「多分、島津君は何処かで変わらなきゃいけなかったんだよ。それが少し早く来ただけかも知れないし、単に島津君が気付いて無かっただけかも知れない。でもきっと仕方ないんだよ、私たちは子どものままじゃいけなくて、大人にならなきゃいけないんだから」
 忠夫は横目に奈津子の表情を伺った。先程は子どもっぽいように見えていたそばかすも、今の言葉を聞くと大人への脱皮の象徴のように思えて不思議だった。映画の一シーンの中に出てくるような言葉をすらりと言える奈津子と、泣き言しか言えない自分との違いを感じ、忠夫は恥ずかしいような気持ちになった。
 二人の家を分かつ曲がり角まで来ると、奈津子はふと立ち止まった。
「ここまでで良いよ。送ってくれてありがとうね」
「あ、でも折角だから」
「ううん、お父さんに見つかると怒られちゃうから。じゃあまた明日、学校で」
 トントン、と爪先を地面に落とし揃えてから、奈津子はY字の角を右斜めに曲がっていった。小刻みに揺られている鞄を飽きることもなく見送っていると、急に忠夫の目を光が襲った。何だろうと訝しげに見上げ、街灯に灯が入ったのだと気付くと、忠夫は背中を少しだけ丸めて自分の家路に就いた。相変わらず、猫背は治っていなかった。


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