「金魚の夢」

 中編

 四

 何故金魚が目の前に現れているのかを忠夫は考え始めていた。目をつぶって、である。暗闇のあちら側で金魚が何をしているのか分からないことは不気味だが、目の前に浮かんでいるのを見るのはもっと怖かった。
 金魚は俺の人生にいつでも付きまとってくる――。そう思っても、決して悪い気持ちはしなかった。小学生の頃などは、あれだけまめに世話をしていたのだ。ただ、今自分の前に居る金魚は別だろう。何かに怒っているようにも、忠夫には感じられた。少なくとも、嬉しがって付きまとっているようには思えない。
 では、何が原因で怒っているのだろう? 見当はつかなかった。飼っているときにも、金魚が何を考えて泳いでいるのかなど考えてみたことはなかった。どれだけ長生きするかということが一番の関心事だったのだ。
 答えてくれるなら、尋ねてみたかった。だが答えてくれることはしないだろう。だとすれば、自分で気付かなければならないのか。厄介な宿題を背負わされた、と忠夫は思った。答えを見付けなければ解放されはしないのだろうか。
 何が一番の早道なのだろうと眉間にしわを寄せたとき、ふと網膜が端に光を捉えたような気がして、忠夫は思わず薄目を開けた。勘違いでもなかったらしく、光は遠くからちらちらと見え隠れしていた。最初は目の錯覚だろうと思っていた忠夫だったが、時間が経つにつれ、それは目の錯覚でも何でもなく走ってきている車のヘッドライトだということに気付いた。
「助かった」
 呆けたような声で、忠夫はそれだけを呟いた。恐る恐る横に視線を遣ると、金魚はいつの間にか消えていた。自分と同じようにして光を見、それを嫌がって隠れたのだろうと、勝手に一人合点した。
 確実に、以外にも早い終わりを教えてくれているヘッドライトの光に、忠夫は救われたような気がした。そして、今にもへたりこんでしまいそうな下肢に力を込め、真っ直ぐ向かってくるそれを出迎えた。



 五

「そりゃあ夢だぜ、島津さん」
 タクシー会社の同僚である氏家は、コーヒー缶を片手に呟いて見せた。その双眸に、呆れと好奇心とが同居して入り交じっている。
「──そうかい?」
 返ってきた言葉に対し、大して失望は感じなかった。むしろ、こんな突拍子もない話に同意する方が異常だろう。
 その幾分項垂れた首筋にやつれた様子が見て取れることにこそ、氏家は気を引かれた。忠夫が離婚した妻への送金のために働き詰めであることを知っているから、少々心配にもさせられていた。
「それとも、病院にでも行くかい?」
「いや、止しとくよ。下手に入院でもさせられたら堪らない。そんな金や余裕がないことくらい、氏家さんだって知ってるだろ」
 そりゃそうだ。ヤニで黄色くなってしまった歯を見せながら氏家は笑った。
「それにしても金魚たぁ、色気がないね。どうせだったら色っぽい後家さんの幽霊にでもお出ましいただけばよかったものを」
 忠夫は無言で微笑み、頷いた。その様子を見て氏家は初めて、背筋に痒みにも似たようなざわつくものを感じた。
「……もしかして、ホントなのかい? その、金魚ってのは」
「ああ」
 峠の休憩所に二人の車は並んでいた。眼下には、既に灯の消えて闇に沈んだ街が広がっている。細々と繋がっている国道沿いの街灯ぐらいが、そこに街があることを教えていた。
「恐っそろしいことを聞いちまったもんだぜ、全く。さっきまでは平気だったが、こりゃあ、丑三つ時にはここは通れねぇな」
 氏家は隣町までの客を乗せて帰ってきたところらしい。灰を足下に落とし、柵に背中を預けながら峠の方を見遣った。昼間はそこそこの交通量があるこの道だが、道の悪さもあり、深夜ともなれば行き交う車の数は極端に少ない。
 忠夫も隣町まで帰ろうという客を幾度か乗せており、行って帰ってくるまでに対向車が一台でも来れば良い方だということは知っていた。そんな道に幽霊が出ると聞けば、薄気味悪く思うのも当然だろう。
「寝が足りなくて夢を見てた、て落ちになってくれるとこっちも気が楽なんだがな」
「何だ、休みはきちんと取った方が身のためだぜ?」
「働き詰めだった……のもあるが、最近は寝付きが悪くてね。夜中になると、ふと目が覚めてそれから寝られなくなってしまう。年なんだろうな、きっと」
「しぃさん」
 氏家は、会社での忠夫の通り名を口にした。
「そんな生活、もうずっと続けてるだろ? いい加減吹っ切れないと、そのまま棺桶まで直行しちまうぞ」
「俺はこの会社に入ってまだ七八年しか経ってないが。氏家さんが平気なんだから、俺もまだまだ十年は持つだろうよ」
「違うよ」
 煙草を空き缶に投じ、氏家は呻くように言葉を漏らした。
「しぃさんの生き方だよ、俺が言いたいのは。何が気に入らんのかは知らないが、無理して全部内側に溜め込んで生きてるくらい見てりゃ分かるよ。こっちは二十年もこの仕事やってんだ、色んな客見てるうちに人間の観察力くらいは身に染みついちまってんだよ」
 そうか、と呟いて忠夫は空を見上げてみた。先程までの霧はやはり夢現の心地で見た幻だったのか、星は夜空一杯に散らかされたまま片付けられないでいる。都会では決して見ることの出来なかった空に押し潰されるような感覚になって、忠夫はああと声をあげた。



 六
 
 それなりの競争倍率を突破して入学した県立高校は、忠夫にとって意外なほどに楽しく、充実したものだった。新しい学友と難度の高い授業は、忠夫の中に絶え間なくこびり付いていた空白を埋めるに余りあるものがあった。
「高校はどうだ」父親に尋ねられたときも、忠夫は笑みを浮かべて頷き返していた。更に無口となっていた父親はそれ以上口を開かなかったが、安堵している様子を忠夫は背中から感じ取っていた。
 そんな一年の初夏、夏服に衣替えしたばかりの時期だった。
「俺は、お前の影だよ」
 バス停で帰りのバスを待っていた忠夫の前に現れた賢治は、直視することを躊躇わせるような憎々しげな視線を注いだ。何をして生計を立てているのだろうか、服装は意外にもこざっぱりとしていて、丸刈りだった頭もスポーツ刈り程度に伸ばされていた。
「餓鬼の頃はお前が俺や陽輔兄ィの影だった。けど、ホントは違った。お前は俺達の影で爪を研いでたんだ、獲物を狙ってる猫のように。汚い野郎だよ、お前は」
 下校中の同級生達が、ちらちらと不安と好奇心の入り交じった視線を向けながら歩き去っていく。本当だったら、この兄も自分と同じようにして学生生活を満喫しているはずなのだ。それを思えば申し訳なかった。
「兄ィ……」
 忠夫は慰めの言葉を探そうとして、できなかった。何を告げ何をすれば良いのかを理解するには、二人の間にできた溝は深すぎたのだ。少し視線を落とし、制帽を被っていたままだったことに気付き慌てて脱いだ、その仕種すら賢治には嫌みたらしいものに感じられ心の琴線に触れた。
「良いよなお前は、温々と育ててもらえて。あれだ、お前が飼ってた金魚と同じだな。口を開けてりゃ餌もらえるんだ、楽な人生だよな、ホント」
 賢治らしくない陰のある台詞が幾つか並んだ。殴りかかったりして来ない代わりに、ねちねちと絡んだまま忠夫を放してくれそうにはなかった。誰か先生を呼んでいないのか、先生は助けに来ないのか。そう思い、忠夫は視線をあちらこちらに素早く走らせた。
「……母さんが心配してる。俺のことは怨んでも構わないけど、家に帰って安心させて欲しい」
「知ってるさ」賢治は、少し語調を弱めた。「店に拾われたとき、親方に家族に連絡しなきゃ置けねえって言われて一度だけ連絡したんだ。その後、俺のとこまで何度か来てんだよ。自分で口止めしといてなんだが、親父やお前は知ってるのかと思ってたが……やっぱりそうか、お前等は俺のことはどうでも良いんだな」
「どうでも良いってわけじゃ……」
「どうでも良くない? そう見えないから言ってるんだよ、忠夫。俺がここに来たのはな、最初は少し様子を見るためにだけだった。一目見たら帰ろう、そう決めてたんだ。きっと、お前は俺の分も頑張ってくれていると信じてな。これ以上怨んでも誰のためにもならない、お前を許そう、そう思っていたんだよ俺は。そしたらどうだ、お前は澄まし顔でバス停に立ってる。俺のことなんてちっとも覚えてませんって風にな。俺が目の前に出たときもどうだ、迷惑そうに、汚いものでも見るかのように顔をしかめた。その後で周りを見渡したろう? 結局お前は誰かにおんぶにだっこされてなきゃ生きていけないんだよ、俺や兄貴の背中の代わりに、また別の背中を探さなきゃ気が済まないんだ。お前は誰かの人生に寄生してるんだよ、いつもな」
 憎々しげな視線は、いつの間にか蔑むようなものに差し替えられていた。遠慮がちな視線が二人を遠巻きにしている中で、忠夫は背筋を強く伸ばし、肩から提げていた鞄の紐を力強く握り締めた。
「違うよ」
「何が違うんだ」
「今の兄ィは、俺や母さんや父さんに慰めて欲しいだけなんだ。賢治は悪くない、兄ィは悪くないって言ってもらいたいんだよ、心の中の何処かで。でも駄目なんだ、それだけじゃ兄ィはいつまでも前を向けないんだ。そう思ったから、兄ィだって俺に会いに来ようとしてたんじゃないのか?」
 湯気が立ち上るという言葉はこう言うときに使うのだと、忠夫は思った。目の前にいる賢治は、明らかに苛立ちと困惑とを抑えかねていた。
「お前に何が分かる。いつも味噌ッかすで、俺たちの後ろを付いてくる以外には金魚の世話しか能の無かったお前に、俺の何が分かるって言うんだよ」
「分からない。確かに俺は役立たずで、兄ィたちのお荷物だった。でも、今のままじゃ駄目なんだってことくらいは、俺にも分かるよ」
 歯軋りする音が聞こえてくるようだった。二人の教師が押っ取り刀で走ってくるのと入れ違いに、賢治は無言のまま踵を返し、ゆっくりと歩き去っていった。
「あ……」
 忠夫は声を掛けようとした。しかし寂しそうな背中を前に気後れし、言葉は何も滑り出ては来なかった。
「島津君、一体何があったんだね」
「何でもないです」
「いや、しかし……」
「何でもないんです」
 忠夫はもう一度強い口調で言うと首を激しく振り、右手に握り締めていた制帽を深く被りなおした。
 その後も、バス停でバスの来るのを待っているときにしばしば辺りを見回したが、賢治の姿を認めることは二度と無かった。
 その日を境に、忠夫は殊更勉強へ打ち込むようになった。それが、賢治兄ィに対するせめてもの恩返しだと思った。学友達は次第に距離を置いていき、いつからか「ガリ勉島津」などという大して有り難くないあだ名まで頂戴するようになったが、忠夫は気にしなかった。肉親を心ない言葉で傷付ける自分の器の方が余程小さかった。
 成績の伸びとは正反対に、孤独さは増した。だがそれは傷付き傷付けられることへ敏感になっていた心にとっては逆に快かった。今は誰の背中にも負ぶさっていない、そう思うことがそのまま慰めになっていた。比例するように、曲がっていた背中も真っ直ぐ伸びるようになっていた。
 父親もいつしか「高校はどうだ」とは尋ねなくなった。夜遅くまで明かりを灯し、夜のまだ明けぬ内から家を出る日々が三年続いた。
 そして心の許せる友の一人もいない代わりに首席で卒業証書を受け取り、過去の卒業生がだれ一人として合格し得なかった大学への入学許可証もまた手にしていた。



 七

「しぃさんって、この会社来る前って何してたんすか?」
 何気なく吐き出された言葉に、賑わっていた居酒屋の空気はそこだけはっきりと止まった。場に居合わせた社員の非難混じりの視線が一挙に集中したことに、若い事務社員は狼狽した様子を見せた。
「色々な」
 忠夫は特に気にしない。過去は過去であり、現在ではないと割り切っているつもりだからだ。
「色々……あってな」
 信じない人間もいるだろう、これでも昔はエリートコースを歩み続けたいけ好かない人間の一人だったのだと言っても。大学を卒業してからの短い数年間が、人生の最高潮だった。それからは、下っていった記憶しかない。若手に弾き出されるようにして退職しても、他の同期がそうしていたように天下り先へ出向することは選ばなかった。
 もう、そのことに対し失望を覚えることは止めている。業だと言い聞かせることで残りの人生を歩んでいくのだ、余計な感傷はそれを鈍らせる。
「人の世には、道なんて無いのさ。誰もが手探りで歩み、そして誰の意志でも無しに思い思いの方向へ歩を進める。運命なんて言葉は説明できないそれを補完するための単なる概念だよ、空虚な意味しか持たない音や文字の集合体に過ぎない」
「それって……」
「湿った話は終いだ」
 新たに注がれるビールの泡は、忠夫の気持ちを代弁するように泡沫と消えていった。



 八

「JRの駅前までお願いします」
 乗り込んできた白髪の初老の男性は、忠夫より僅かに年上だろうか。折り目正しい雰囲気の漂う挙止をしている、と忠夫は思った。
「一時ちょうど発の新幹線に間に合わせたいのですが、大丈夫でしょうか?」
「ええ、余裕を持って間に合いますよ」
 春の陽光を浴びながら、二人を乗せたタクシーは静かに走り始めた。
「実は、嫁いだ娘に孫が産まれましてね。今から会いに行くところなのです」
「ほう、それはお目出度い……」
「有り難う御座います」
 腕時計にちらと目を走らせて、男性は穏やかな口調で切り出した。
「ちょっとお話を聞いていただけますか?」
 ええ、と忠夫が答えると、勿体付けたような時間を置いて声が流れ始めた。
「私は時任と言いまして、S大学で政治学の教鞭を執らせて頂いている者です。たまたまタクシーに乗り合わせただけのあなたにこんな話をするのも何なのですが、娘と顔を会わせる前に自分の中で整理を付けたく、恥を承知の上でこのようなことを申し上げております。実は娘と言いましたが──まことにお恥ずかしいことに、私と娘とは長い間疎遠になっておりました」
 息を漏らし忠夫は時任を見た。バックミラー越しに窺える表情は波一つ起こしそうになく、とても娘と仲違いをし続けていたようには見受けられない。
「最初は軽い意地の張り合いでした。娘の希望する将来と私の思い描いた道とが違っておりましてね──美大に行きたいと告げるのと、真っ向から衝突しました」
 思い出すまでもなく、今聞かされているそれは賢治兄ィとのことのようだった。
「結局娘は、家出同然で飛び出しまして、それでも私は愚かなことに、娘と分かり合おうとはしませんでした。結婚式の招待状が呼ばれたときにもですね、私は何やかんやと難癖を付けて、事前に一言の話も無かった男など許せるものか、と突っぱねたのです」
「それで」忠夫は、思わず口を差し挟んだ。「それで、どうなさったんですか?」
 時任はその質問を待っていたかのように、大きく深く頷いた。
「妻はそれを更に突っぱねました。驚きましたよ、私と家内とは長い間連れ添って参っておりましたが、私のすることに対して、あれ程までにきっぱりと反対されたのは初めてのことでした」
「私にも娘がいましたよ。十にもならない内に死んでしまいましたが、生きていたらあなたみたいな悩みを抱えていたんでしょうかね」
「そうでしたか。嫌な話をしてしまいました」
「いえ、気になさらないで続けてください。聞いてみたいんです、あなたの話を」
 言いながら忠夫は、本当に聞いてみたいんだともう一度、今度は心の中だけで呟いた。聞いてどうするという訳でもなく、ただ自分の人生の針路がもう少しずれていたらこの男と同じような人生を歩んでいたのかも知れないと思うと、好奇心が湧いた。時任の言葉は淡々と続いていた。 
「妻に無理矢理結婚式に連れて行かされ、娘の晴れ姿を見たときに初めて、私は自分の頑固さを恥じました。娘がやりたいようにさせれば良かったのですな。我々の世代はやりたいこともやれなかった人が多かったけれど、今の時代はやりたいようにさせてあげられる。世相がそのようになってくれているのに、私のような頑固者の存在で、娘には要らぬ苦労をさせてしまったと思っていますよ」
「羨ましい話です」
「羨ましいですか?」
「ええ、とても素晴らしい奥さんをお持ちで」
 自分に欠けていたものをこの男は持っている。理解ある妻が居たら、自分も時任のように人生を取り戻すことが出来たのだろうか。考えても無駄だと思いつつ、忠夫はしばし若い頃に思い描いたような幸せな家族を想像した。


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