「金魚の夢」

 後編


 九

 水槽の向こうから、金魚は真っ黒な目を寄せていた。
「どうだ典子、金魚は面白いか?」
 うん、と答えても典子は振り向かなかった。小さな指をガラスに貼り付け、それを目掛けて口をパクパクとさせている金魚をじっと見つめている。
「金魚はな、きちんと餌をやれば長生きするんだぞ。典子も金魚を飼ってみるか?」
「お祭りは?」指を上の方へつっ…と動かし、典子は尋ねた。「お祭りの金魚も飼えるの?」
「金魚すくいの金魚も同じだよ。お父さんが子どもの頃は、捕ってきた金魚を金魚鉢の中にいれて毎年飼ってたんだ」
 言いながら忠夫は、陽輔兄ィの家にいる父親も金魚を飼い始めたのだと思い出した。滅多に家を出ない寡黙な父親が気鬱にならないよう、医者に手間の掛からない生き物を飼うことを勧められたのだ。熱帯魚の方が面白くて綺麗だから良いという孫に対し、父親は金魚を選んだ。物珍しいものなど面倒だという気持ちのある一方、忠夫が金魚を飼っていたことを思い出したのだろう。
「私、飼わなくていい」
 そうか、と忠夫は頷き、それ以上典子に金魚を勧めることはしなかった。むしろ内心では、幼い頃の自分と同じ興味を抱かなかったことにほっとしていた。典子には庭で犬を飼ってあげた方が良いだろう、とペットコーナーを見回し一人合点する。犬の方が世話をしたりする分に教育にも良さそうではあるし、何より健康的なイメージがする、と考えたのだ。
「じゃあお昼だし、食堂に行くか。何でも好きな物を食べて良いからな」
 典子はすぐに目を輝かせた。
「パヘ」フェ、とは巧く言えずにいた。「パヘも食べていいの?」
「ああ、良いぞ。何でも典子の好きなように注文しなさい」

 今日はどういう縁なのだろうか。食堂の入り口には水槽があり、そこにも大きな金魚が悠然と泳いでいた。
 忠夫はそれを見て、少しだけ嫌な気持ちがした。彼の知っている金魚と比べ、それはあまりにも大きく金魚と呼ぶよりはむしろ鯉のようであり、金魚とは認めがたかったのである。
「お父さん、どうしたの?」
「いや、何でもないよ」
 典子の方を向くと、金魚は視界から外れた。忠夫はその時、残念なような、それでいてほっとしたような気持ちを覚えていた。金魚に覚えた違和感は、心の打ち沈んだ部分までを積極的に圧迫していたのである。忠夫の中のマイナスのイメージと、プラスのイメージの両面を持ち合わせているのが、金魚であった。
 忠夫はコーヒーだけを頼むと、典子が一生懸命目の前の料理に取り組む様子を見ていた。先程の金魚を見てしまったせいか、どうしても食欲が湧かない。
「典子は沢山食べるのが好きじゃないのか?」
 お子様ランチを半分ほど残したままスプーンを置く典子は、大きく頭を振った。
「あんまり食べられない。パヘ、食べていい?」
「もう少しだけ食べてからにしなさい、きちんとご飯を食べないで甘いものばかり取っていると、歯医者さんに行かなきゃいけなくなるぞ」
 素直に頷くと、典子はまたチキンライスに取りかかった。何気ない一つひとつの仕種が愛らしい。テーブルに片肘をつきながら、外の景色を見遣る。スモッグの掛かった東京の空は、あまり清々しさを感じられるものではなかった。



 十
 
「あれからな。修行していた旅館の板場でトラブルを起こして、もう少しで独立できたところをふいにしちまった。今考えると短慮なものだったが、起こしちまったものは仕方ない、どうにかなるだろうと飛び出してな。それからは何をしても巧くいかなかったよ、あんまり恥ずかしいから実家にも寄りつけずに、遠い場所ばかりぶらぶらと渡り歩いてた。それでこの年だ、この前突然電話が掛かってきたときには驚いたが、お前も立派になったんだと思うと、ついつい無性に会いたくなっちまった」
 尋ねられる前に、賢治兄ィは語りだした。居酒屋の喧噪の中、弱々しい光を放つ視線を伏せながら訥々と語る賢治を見て、忠夫はあまりの変わり様に驚いていた。こんな目をしていたか、と思うと、今までの賢治の人生の苦慮が滲み出ているようで申し訳なかった。
「奢りだから……」
 そう言うと、安心したように注文を出した。あまり恵まれた生活を送っていないとは興信所の報告からも聞き及んでいたが、思った以上に生活には困窮しているのかも知れない。
「兄ィ、仕事は?」
「日雇いだ。最近はきつくなってきたが、まだ十年はいけるだろう。もう四十に手が届こうというところで日雇い暮らしというのも恥ずかしいが、もう知られてしまったことらしいからな」
 酒を舐めるようにしながら、喉に流している。こんなに味を噛みしめるような飲み方をするようになっていたことは、意外だった。二十年という月日の長さを感じた。高校時代のあの日、二人の縁が切れてしまってからは、賢治兄ィと忠夫とは今日まで一度も会うことがなかったのだ。連絡と言えば、一方的に送られてくる葉書だけだった。賢治兄ィのよく言えば細やかな性格によって、忠夫は賢治の生きていることを知り、こうやって再会することが出来たのである。
「子ども、あんまり良くないんだって?」
 予想もしていない台詞が、賢治の口から洩れた。
「陽輔兄ィから聞いたよ。お前も、大分苦労してるんだな」
 喉に、詰まるものを感じた。忠夫の妻は容姿だけで選んだような女だった。その精神があまりにも幼く子どものような存在だと知ったのは、結婚してからの話である。典子の健康が思わしくなくなってからは、その性格は改善されるどころか更に顕著になっていた。典子が病気になったのはこの妻の放縦を極めたような生活の所為ではないかと思ったことも、一度や二度ではない。
「それで、兄ィさえ良ければ、仕事を紹介するけど……」
 忠夫は話を遮るように尋ねた。兄ィに心配されていることは嬉しかったが、自分に都合の悪い話は、出来るだけ誤魔化したかった。そうだな……。深く皺の刻まれた眉根を寄せながら、賢治は考え込む素振りを見せた。
「頼む」
 もう少し若かったならば、数十年前のあの日に言われた通り、「お前は誰かの人生に寄生してるんだよ」と返していたかも知れない。しかしそんな甘っちょろい台詞を囁くには、忠夫も年を取りすぎていた。そしてこの兄にこれ以上辛辣な態度を取ることなど考えられなかった。



 十一

 一番上の兄、陽輔は二人の弟とは違い、ごくごく平凡に人生を過ごしていた。独り身になっていた郷里の父親の体調が思わしくなくなってからは自分の下に呼び寄せ、猫の額のような土地に立てた家に同居させていた。
 それを狂わせてしまったものがある。毎回毎回、兄ィらしい小さな希望を持って買っていた宝くじだった。多分、当たる事なんて考えてなかっただろう。当たったら、という夢を見させてもらうために、兄ィは千円札を投じていたのだ。
 それが、何の間違いか当たってしまった。三千円が当たったと言って喜んでいた兄ィには、一等前後賞合わせて九千万円という数字は大きすぎたのだ。
「どうしよう」
「どうしようって、当たったんだから正真正銘兄ィのものじゃないか。何もそんなに脅えることはないだろう」
 そう言わなければならないくらい、その時の兄ィの表情には翳りがあった。
「だってお前……まさか当たるなんて思ってなかったからさ」
 忠夫は驚くと言うよりは、幾分呆れていた。当選を目指して買うはずの宝くじに兄ィは何を託していたというのだろう。しかし、そのことを口に出すことは流石に憚られた。
「好きなことをすればいいじゃないか」
 忠夫自身もこの時は妻との離婚を引きずっていた時期だったから、陽輔が手にした金をどう使うかなどあまり深く考えたりはしなかった。
「好きな事って?」
「例えば、もう少し大きい家を手に入れるとか、車を買うとか」
「そんなこと、出来ないよ」
「じゃあ子どもの為に貯蓄しといたらいいじゃないか。女の子でも当たり前に四大に進学するような時代は、もう目の前まで来てるんだから」
 その方が兄ィらしい、と忠夫は考えていた。
 もう少しまともなアドバイスをしてあげられていれば、と後悔するのは後になってからだった。気の小さい兄ィが選んだ物は家でも車でもなく、予想していた貯蓄でもなかった。
「株を始めたんだ」
 兄ィの顔は綻んでこそいたが、忠夫はそれに危うさを感じた。株で失敗した人間はそれこそ山ほど見てきていたからだ。そして、兄ィのようなお人好しは、海千山千のディーラーにとっては恰好の餌食としてしか見られないことも知っていた。
「妻方の親戚に証券会社に勤めてる人がいてね、その人の薦めなんだ。これでも意外に巧くいくものでね、取り敢えず損はしていない」
 今までの生き方とは全く違う兄ィの姿勢に危うさを感じつつも、忠夫には何も言うことが出来なかった。
 もう少ししてから陽輔兄ィの家を訪れたとき、忠夫は居間に妙なものを見ることになる。
「これかい?」
 少し自慢げに語る口調は兄ィのものであって兄ィのものではなかった。
「一日一回これを拝むんだ。そうするとすごく気持ちが楽になるんだよ」
 兄ィは新興宗教にはまり込んでしまっていると知ったのは、迂闊にも家族全体が肩までずっぽりと浸かり込んでしまった後だった。株の儲けは粗方そこに寄付させられ、内情は素寒貧だろう。身内がいとも簡単に引っ掛かってしまったことに、忠夫は暗澹とした気持ちにさせられた。
 父親の兄――つまりは伯父のことが頭に浮かんだ。山師気取りであっさりと詐欺師に引っ掛かり、弟に大きな借金を背負わせたまま行方をくらました愚かな親戚の血が今の陽輔には濃く出ていた。
「止めた方が良い、あんな新興宗教は」
 言葉を選ぶ術を知らなかった忠夫は、その一言をきっかけとして兄と不縁になった。間もなく無言を貫き通したまま父親が亡くなったが、葬式のときにも陽輔は賢治とだけ話をし、忠夫には苔むしたような視線を向けるだけだった。



 十二

 一時にはかなりの余裕を持ち、タクシーは駅前の降り場へ横付けになった。
「どうも、お付き合いくださって有り難うございました」
 忠夫は軽く頷くと釣り銭を渡した。
 行き交う人の向こうに消えていく背中を見ながら、マルボロに火を付ける。月に一箱も吸わないが、今は吸いたかった。昔はよく吸っていた。止めたのは典子の健康に気を使ったからだ。典子が亡くなってからも禁煙は続けられただろうが、少しだけ吸うようにした。
 くゆらせた紫煙が、消えていく。こうしてまたこの都会の空気が汚れていくのだと、忠夫は思った。
 忠夫は何気なく駅前の広場へ視線を向けた。浴衣を着た女性たちがビラを配っている。それが目を引いたのは、一番手前の娘が金魚柄のそれを着ているからだった。まだ四月の下旬だというのに、随分と気の早い話だと思う。それとも、あれは金魚ではなくて五月の節句に合わせた鯉なのだろうか。
 そう言えば、あの幽霊のようなものを見たのは、昨年の夏のことだった。
「あの金魚……」
 忘れまいと思っていたのに、いつの間にか忘れてしまったのか。それとも、心の一番本当の部分では忘れたかったのか。引っ掛かったまま落ちてこなかったものが、拍子に合わせてすとんと落ちてきた。
「そうだ、あれは典子のために買った玩具の一つだ」 
 典子は生きる力が弱すぎて、十歳の誕生日を迎える前に別れを告げてしまったけれど。買ってきた玩具のように生きてきたことを示す証拠は、そのまま残った。そして捨ててしまうと典子のことを忘れてしまいそうなのが怖くて、ずっと押し入れの中に置かれていた。典子の死が引き金となって妻が出ていった時も、それは残されていた。
「卑怯だな」
 殆ど何も残されていない部屋の中、ぽつりと呟いたことを覚えている。
 忠夫は、車に戻るとキーを回した。低い声を上げてエンジンがかかる。手早くシートベルトを締めた。
 この部屋から逃げ出すことによって、妻は典子の呪縛から解き放たれることを許された。
 それと引き替え、自分は、何一つ変わらない。人と必要以上に交わることなく、常に日陰の中でひっそりと生きている。去年の一日が今日の一日であり、十年前の一日でもあるのだ。
「本当に、卑怯だ」
 ハンドルを切りながら、忠夫は呟いた。行き先は決まっている。駅からは近い。やるべきことも分かっていた。



 十三

 忠夫が時任を車に乗せる、ほんの数週間前のことである。
 久し振りに回す番号だった。屈み込むようにしてボタンを押し終えると、忠夫は小さな溜息をついて壁に貼ってあるカレンダーを覗いた。
「兄ィ、忠夫だ」
 愛想よく電話に出た陽輔の息が潜まった。
「来週、親父の墓参りに行こうと思ってるんだが、一緒にどうだろうと思って」
「墓参りか……」
 受話器の向こうで郷里に思いを馳せているのは、よく分かった。忠夫がそうであるように、兄ィも故郷から足が遠のいて久しいのだろう。忠夫が最後に戻ったのは七回忌、それから既に五年が経過している。
「そうだな、お前とも長く会っていないからな」
 陽輔の返事を聞いたとき、忠夫は思わず受話器を押し当てたままお辞儀をした。

 次の週の日曜日、二人は新幹線の駅を降り、在来線に乗り継いで郷里に戻ってきた。

 陽輔の家に同居した父親がなくなってからは兄弟の誰も滅多に訪れたりはしてなかったが、時折掃除をしてくれるように頼んでいた隣家の親戚に当たる老夫婦が暇を持て余していたおかげか家も庭も思ったより荒れていなかった。
 二人は庭へ回った。陽輔は感慨深いものがあるのか、懐かしそうに庭の土を手に取っている。
「お前の金魚の墓か。小さい頃はお前は金魚が好きだったもんな」
 墓標は殆どが倒れていたが、その内の幾本かはまだ朽ちて凸凹になった頭を天に向けていた。地中の死骸はとっくの昔に土に還っているだろう。
「兄ィ、昔俺がどんな気持ちで金魚を取ってたか知ってるかい?」
「どんな気持ち?」
 陽輔は、指に付着した乾いた土を払いながら振り返った。
「兄ィ達を喜ばしたかったんだよ、兄ィ達が金魚で遊んでる姿を見たかったんだ。ほら、小さい頃の兄ィ達は俺をみそっかすにして遊んでくれなかったろ、だからそんな俺が喜ばしたかったんだ、自分の手で」
「そうか……」
 乾いた土は、陽輔の手からさらさらと零れていく。そのゆったりとした動きが、この空間の時間の流れを司っていた。
「やっぱり、お前は高校に行くつもりはなかったのか……」
 忠夫は、驚いて陽輔の背中を見つめた。誰にも話したことのない自分の秘めた事柄を、兄ィは知っている。
「これでも、お前達の兄貴をずっとやってきたんだ。そのくらいのこと、何となくは分かってたさ」
 痩せひしがれ曲がった背中は何も語ろうとはしないが、いつもはないピンとしたモノが一筋伸びているように感じた。
「しかし、その理由が……俺と賢治を憎んでのこととまでは思い至らなかった」
「憎んで?」
「きっと、賢治をそうすることで見返し、優位に立ちたかったんだ。羨ましいということはそのまま憎いということに繋がったんだろう……この世にあるものなんて全部、ほんの薄皮一枚で区別されてるだけだよ」
「そうかも知れないな……俺にとって兄ィ達は眩しかった。だから、どんなことをしても越えたかったのかも知れない」
 古いことを思い出したと、忠夫は笑った。
「しかし結構、兄ィも良いこと言うんだな。俺の中にある新しい兄ィは、小心者でお人好しで、典型的に騙されやすいタイプだったんだが、それも見込み違いだったらしい」 
 陽輔は苦笑しながら首を振った。
「もう宗教はやめたよ。他力本願じゃ何も起こらない、そんな人生で大事なことを俺は忘れていた。今考えれば、この家と土地を売り払わなかったことだけが救いだな。そんなことをしていたら、俺は立ち直れないままに今も蟻地獄に苦しんでいたかも知れん。帰るところを残していたから、目を覚ましたときに巧く立ち行くことが出来たんだ」
 陽輔の視線は、遠くから近くから、ここから収められるもの全ての間を、ゆっくりと彷徨っていた。山々の稜線から、庇にかかっている蜘蛛の巣から、温かみを押し頂き、分け与えるかのように、忠夫に向かって笑いかける。
「あの時の俺は飢えていたんだ……今の情けない自分から抜け出したいという欲望に。女房は俺には出来た女だったけど、俺の背中の後ろをついていくことしか知らない人間だ。だから尚のこと、俺は今の自分から脱皮しなければならないと思っていた。その結果がこれだ、俺は自分の器も見極められずに背伸びしすぎてたんだな」
「俺だって同じだよ、ずっと兄ィ達の背中しか見てこなかった俺は、それが無くなったとき自分が何をすればいいのか見つけられなかったんだ」
 何だかんだと言って兄弟なんだ、と忠夫は思った。二人の人生は違っているようで何処か似ていた。人生の大半を歩み終わった今、後ろを振り返ってみるとそのことがよく分かった。
「どこかで飯でも食ってから、墓に行くか。俺は道具を取ってくるから、先に行っておいてくれ」
 陽輔の言葉に頷き、忠夫はぶらぶらと歩きながら道へ出た。もううんざりするくらい歩き馴れた道だったが、こうやって眺めてみると懐かしい。側溝の蓋の欠けかた一つまでが、変わっていないように思えた。何処に身を置いたところで、魂だけはあの向こうに見える山々に抱かれ続けているのだろう。父親がそうだったように、自分も最後にはここに戻ってくるのだろうか。
「あら、島津君」
 突然、そんな声がした。前から自転車でやって来ていた女性は、忠夫が振り向くのを見ると小さく口を開けながらブレーキを掛けた。
「やっぱり島津君なのねえ。同窓会にも来ていないからどうしてるのかと思っていたけれど、帰ってきてたの?」
「え?」
 忠夫は軽い戸惑いを見せた。
「分からない? 中学校のときに同じクラスだった、川上なんだけど」
「ああ」中学校のときの思い出が、頭の中を去来する。「あの、川上奈津子さん?」
「小母さんになっちゃったから分からないわよね。懐かしいわ、ちっとも変わってない」
 昔は変わったと言われたのだと思い、忠夫は苦笑した。奈津子に中学生の頃の面影は全くなく、そばかすのあった辺りには少し染みが浮き出ていた。
「同窓会は、今までがなかなか忙しかったもので」
「でも、次は来られるのかしら」
「そう……次は、多分」
 こちらに残っている人間の近況を聞かされると、中学校、そして高校のときの思い出がまざまざと甦ってきた。次は陽輔兄ィだけでなく賢治兄ィも誘おうと、忠夫は思った。自分と同じように細々と生きている賢治兄ィだが、あの縁側に腰掛け庭の土を手に取れば、自然と言葉が湧いてくるに違いない。その時には昔の話を肴に酒を飲もうと、忠夫は奈津子が不思議そうにしているにも関わらず、天を見上げて笑った。



 十四

 タクシーを降り、時任の背中を捜しながら忠夫は新幹線乗り場に向かって走った。その背広姿は、日曜日の午後にあってすぐに見つかった。時任の名を呼びながら、走り寄る。時任もそれに気付き、穏やかな笑みを浮かべながら、それでもやや怪訝そうに振り返った。
「ああ、運転手さん。何か忘れ物でもしてたでしょうか?」
「いえ……」
 息が切れていて、まだ、上手くは喋れない。忠夫は、言葉の代わりに右手に掴んでいた物を差し出した。
「これを、持って行って頂けませんでしょうか」
 手渡された金魚に目を落としてから、時任は少しばかり躊躇いがちに口を開いた。
「これは──もしかして、先程仰っていた」
「娘さんに」まだ整わない息を軽く弾ませながら、忠夫は歯を見せないくらいに小さく笑った。
「迷惑かも知れないですが、あなたのお孫さんへのお祝いです。こんなことくらいしか出来ませんが、無事に成長できるように、私からのほんのささやかな気持ちです」
「そんな、見ず知らずの私に──」
「いえ、私が持っていても仕方のないもんです、あなたのお孫さんに是非とも差し上げたいのです。お孫さんがこれを手にとって笑ってくれるなら、私にとってこれ程嬉しいことはない」
 金魚をくるくると回し、氏家はさも感慨深そうに視線を落としていた。自分の娘が子どもの頃を思い出したのだろうか、と忠夫は思った。誰でも、自分の子どもの小さい頃のことは、写真がどれだけ色褪せてしまっても、昨日のことのように思い出せるものである。恐らくは氏家もそれを思い出し、郷愁に浸っているに違いないのだ。
「こんなことまでして頂いて、何とお礼を申し上げてよいのやら──」
 深々と頭を下げる時任に、忠夫は聞こえるか聞こえないかくらいの羽音のような声でそっと呟いた。
「いえ、感謝するのはこっちの方なんです」
「え?」
 訝しげに首を傾けても、忠夫はもう笑みを見せるだけで、それ以上は何も語ろうとはしなかった。
 何度も振り返り頭を下げながら、時任の体が雑踏の中へ消えていく。それを見届けた後で、忠夫は腰が少し痛みを感じるくらいに背中を伸ばし、天を仰いだ。
 典子も、きっと祝福してくれるに違いない。あの金魚の目を通して、成長を見守り、守り神となって、自分の人生の分も時を過ごすだろう。
(生きて欲しい。それが、たとえどんな形であれ)
 それが忠夫の望みであり、あの玩具に込めた願いだった。これが答えなのだろうか。誰も教えてくれる者は居なかったが、それで良い、と忠夫は思った。それは誰も知らなくて良い話なのだ。
 構内から表に出ると、思ったよりも激しく、陽の光が目を焼いた。
「あの雲の中で、金魚も泳いでいるんだろうか」
 ゆっくりと靡いていく雲に思いを馳せる。それとも、あの真っ黒な瞳をぱっちりと見開き、ぷかぷかと浮かんでいるのだろうか。
「今日は、金魚に良い夢を見させてもらったな」
 誰に聞かせるともなしに、忠夫は呟いた。
 一筋の風が流れていく。
 風に押されるようにして、忠夫を乗せたタクシーもまた、雲のようにして街の中に消えていった。
 そしてその後ろを、金魚が人混みを縫うようにしてふわふわゆっくりとついて行っていた。


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