首

 一

 茜色の空に、烏の群が胡麻粒のように散りばめられている。
 人口一万、南九州の山間にある小さな町にも、少しだけ寒さを伴った秋風は打ち付けていた。人々はそれに後押しされるように歩みを速め、烏や虫の鳴き声の他は時折走り去る車のエンジン音だけが空気中に響く。
 町の外れの方はもっと静かだ。街灯も碌に整備されていないそこは、夜にもなれば真っ暗になる。夜の差し迫るこの時間帯は、静謐と共にある種の奇妙な恐ろしさを伴った空気ばかりが流れていた。
 そんな細い農道を、藤村和紀は一人ゆっくりと歩いていた。馴れた道を一歩一歩踏みしめる毎に、鞄の中の筆箱がからからと音を立てる。長く伸びた影が、稲刈りを既に終えた田圃の中を併走する。和紀にとっては変わり映えのない一日の風景だった。
 すっかり遅くなってしまった和紀の帰りを、叔父は待ち侘びているはずだった。それなのに和紀が学校の机にへばりついたまま帰ろうとしなかったのは、別段和紀が意地悪だからではない。中学二年生にもなる和紀には、病弱な叔父を困らせてはいけないという分別くらいはとうの昔に付いていた。
 ただ、意味もなくぼんやりと空を眺めていたのだ。外から見える風景に変わり映えのあるはずもなく、普段ならものの十秒で見飽きてしまうような景色に、和紀はずっと視線を彷徨わせていた。
「今日、お前の姉さんが来る」と床から半身を起こした叔父に告げられたのは、今朝の話だった。「突然のことかも知れないが――まあ、何だ、いつかは来ると分かっていたことだ。電話があったのは昨日のことだ――突然で済まないがお前に一目だけでも会いたいと言っていた。前もって言い出せずに人の虚をついてくる癖は変わっていないと見える」
 言葉の羅列としての意味は判じていても、それが自分にとってどういう結末をもたらすものなのか、和紀はぼんやりと分かりかねていた。結論を導き出せないから迷い、迷っていたから腰を上げるのが億劫になっていた。
 叔父は続けてこうも言っていた。「確かに、色々とあったから、お前だって佳奈子に言いたいことはあるだろう。だけどな、辛抱して、あの娘の気持ちを汲んでやってもらいたい。あの娘がお前に会いたいと電話をしてくるまで、どれだけ悩んだか――中学生になったんだから、分からないでも無いだろう。昔のことは水に流せとまでは私の口からは言えないが、それでも考えては欲しいんだ」
 許すべきなのだろうと、心の中の何処かでは思っている。叔父の言う通り、昔にあったことは忘れて、今に生きている姉を見据えることが、互いにとって幸せなのだろう。真実はどうであれ、表面上はとにかく巧くやっていけるかも知れない。ただ、和紀の中にある泥臭い正義感は、姉のした行為について割り切れるほど柔軟ではなかった。始まりはどうであれ、その後に何が起こるかなど誰も保証してくれはしないのだ。
 いつの間にか、和紀の視線は小石ばかりを追い掛けていた。俯き加減にしていたうちに陽も山の端に隠れてしまい、辺りは粗く塗りつけたような薄ら闇に覆われていた。気付いて思わず見上げた瞳に、すぐそこにある和紀の家が見える。
 この町と藤村の家とは、何の繋がりもない。画家としてそこそこ売れていた叔父は、より良い環境を求めるという名目でこの町に越してきた。和紀は叔父の絵がどれくらいの価値を持つのかは知らないが、中学の美術教師は叔父を褒め称えてわざわざ家を訪れ、和紀に同じ才能の眠っていないことを非常に残念がった。町議会の方でも町制六十周年の記念として絵を描いて欲しいと打診してきたが、藤村俊介はそれらとはあくまで適当な付き合いを続けていた。重要なのは誰も知らない土地に移り住むことであり、追ってくる噂を断ち切るためであった。
 それでも、住んでから十年にもなっていた。玄関の扉を開けると、金具の擦れる独特の音が聞こえる。小学校の頃に描いたときの写生も、叔父の作品と共に飾られている。くすんだ柱の色も少し毛羽立っているマットも、朝と同じように和紀の目に映る。違っていることと言えば、一揃いの靴だけなのだ。たった一つだけだが、それを見て、和紀は明らかに違う家なのだと感じた。
「ただいま」と告げた和紀の声に、従弟の昭が勢い良く飛び出してきた。
「兄に、お帰り」
 まだ小学校に入ったばかりの昭は、よく回らない舌を一所懸命に動かしている。知恵遅れというわけでもないが、この小さな従弟は滑舌よく喋るのがあまり得意ではない。
「あんね、お客さんが来ちょる。父ちゃんが呼んじょる」
 うん、と気のない返事をしてから、和紀は通学靴を脱いだ。昭の後ろからは誰も来る様子はない。皆、茶の間にいるのだ。気の抜けた会話を取り留めもなく交わしながら、今日の一番大事な話の対象が来るのを待っている。台所に立っている叔母が和紀の帰り道とは逆の方向にある窓の外をそわそわと眺めたり、叔父が冷えてしまったお茶を何杯も飲み干している光景を、和紀は見なくても手に取るように分かっていた。
 姉はどうしているのだろうか――廊下の向こうに目を遣りながら立ちあがったとき、和紀はくいと袖を引っ張られた。
「兄に」昭は和紀の制服の袖を掴み、必死に訴えるような視線を送っていた。「兄に、行ってしまうん? あん小母ちゃんと一緒に行ってしまうん?」
 小母ちゃん――姉のことを、昭はきちんとは聞かされていない。ただ子どもの本能で、自分たちの生活と縁のない人間ではないことを悟ったのだろう。昭にしてみれば、年の離れた従姉など単なる闖入者に過ぎない。和紀はそれに少し寂しさを感じながら、笑んだ。
「何処にも行ったりはせんよ」和紀は昭の豆粒のような指をゆっくりと離してやった。「俺が行ってしまったら昭が寂しいやろ? 俺も昭と離れるのは寂しい」
「兄にも?」昭は安堵した面持ちで自分から指を離した。
「嘘、ついたりせん?」
「せんよ。だから先に戻っといて、俺も着替えたらすぐに行くから」
 昭を茶の間に戻してやり、和紀は自分の部屋に入った。電気を付けるまでもなく、ベッドに鞄を投げ出す。いつもより些か乱暴に投げてしまい筆箱の中身は大丈夫だろうかと一瞬気になったが、そんなことは今日にしてみればどうでも良かった。普段から大人しく通知票の評定には温和で公平性があるとばかり書かれているような和紀だが、玄関を潜ったときからどうしようもなく暴れたい気持ちが絶えず脳裏を過ぎっていた。自分でもどうしてなのか、どうしたら良いのか分からない。何と声を掛ければ良いのか、どういう顔をして座っていれば良いのか、悩みながら和紀は着替えを終えた。
 襖の前まで来ると、逡巡する間もなく、昭が向こうから勢い良く引き開けた。
「兄に」トイレに行くつもりだったのか、昭は少しびっくりした様子で体を引かせた。
「あ……うん」
 多少気まずい思いをしながら、和紀は室内に視線をさし向けた。テレビに背を向けて叔父が座り、差し向かって姉が座っている。薄く化粧をした顔は思ったより血色がよく、少し蒼白かった昔の姉とは違って見えた。
「和紀?」細々として壊れてしまいそうな、これは変わっていない声で、姉は和紀の方に向かって座り直した。白い、すらりとした膝が和紀に向かい露わになる。和紀はそれに視線を傾けると、俯き加減になりながら黙って腰を下ろした。
 変わっていない、と和紀は心の中で呟いた。姿形は多少変わっていても姉は姉のままでいた。人目を惹きつける美しい黒髪も、影のある表情も、気弱そうな声も、そして何より和紀の中にたゆたう記憶が、目の前にいる人物について直感させていた。
「久し振り……変わってないね」六年間も音沙汰無かった人間への言葉としては陳腐だと知りつつも、喉仏を擦らせながら和紀は声を絞り出した。その言葉が、思わぬ潤滑油になった。
「うん、変わっちょらん。良かった、元気そうで。姉ちゃんは昔かいあんまり顔色良くなかったから、変な病気に罹っとらんかって心配しちょった。ずっと会えんかったから俺のことも忘れてるかと思ちょったけど、俺は叔父さん達に良くしてもらっとったし、昭もいたし、何も不都合なことなんて無かった。だから、だから――」
「和紀、話は後でゆっくりとすれば良い」今まで黙って二人を見比べていた叔父が言葉を添えた。「佳奈子だって言うことはあるだろうし、時間はたっぷりとあるから、飯を食ってからでも何も不都合なことはない」
 和紀は、はっとなって叔父を見た。頬の窪みに視線を彷徨わせながら、今自分の口から滑り出た言葉をかみ砕く。紛れもない自分の言葉だったことを確認すると、和紀は顔を真っ赤にして押し黙った。
「まあ、久し振りに姉弟が顔を合わせたんだ。何はともあれ目出度いことだ」
 襟を掻き込み、叔父は精一杯の笑顔を作りながらコップを手に取った。静かに乾杯を交わした後は昭と叔母も加わりそれなりに話は弾んだが、結局その間、和紀は姉とまともに視線を交わらせることはしなかった。

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