二
叔父は乾杯の後も焼酎を少しばかり飲んだが、すぐに奥へ引っ込んだ。
「叔父さん、怒ってたね。口には出さないけれど、無理してるのがすぐ分かる人だから」
叔母が障子を閉めてから、佳奈子はゆっくりと足を崩した。二人切りになってしまえば居間も静かなものだった。縁側の方で虫の鳴いている以外は、何の音も邪魔しに来ようとはしない。和紀がお茶を淹れると、佳奈子は礼を言って受け取った。
「和紀は怒ってる?」
このような尋ね方は狡いと思いながら、佳奈子はちらりと弟の表情を伺った。和紀について幼い頃の記憶しか持たない彼女は、まるで別人のようだと思い、しかし懐かしさを感じながら口ごもる弟の顔を見つめていた。
「正直言って、少しだけ怒ってる。今まで一度も会いに来てくれなかったし、電話も葉書も寄越してくれてなかったから。今更言っても仕方ないけど、せめて一回くらいは、きちんと会って話をしときたかった」
「ごめんなさい。でも、ね――」佳奈子は湯飲みに唇だけを当てた。それはまだ熱く、飲めるまでに冷めてはいなかった。「私は、本当のところは会いたくなかった。どういう顔をして会えば良いのか、どういう話をしたら良いのか分からなかったし――それに、和紀を見て面影にあの人を思い出すのが怖かったの」
湯気に唇を押し付けながら、佳奈子は胸の鼓動が早まるのを感じていた。自分で言葉にした瞬間から、忘れようとしていたものが頭をもたげてきているような感覚に囚われていた。
「だから、私は大人になるのを待ってた。あなたがじゃなくて、私が」
「姉ちゃん……いや、姉さん。俺が責めると思ったの?」
「和紀が責めなくてもね、自分で責めてしまうだろうって思ったから。そんな私を見せれば和紀は嫌がるだろうし、叔父さんもきっと喜ばないと思って。それに――」佳奈子は言葉を途切れさせ、湯飲みを漂う波紋に目を転じた。「私は、和紀に会ったとき自分がどうなるのか分からなくて怖かった」
和紀は全部を聞き終え、煎餅の袋をピリリと破ってから苦笑した。
「殺すの? それとも、傷付けたいの?」
「え?」佳奈子は脅えたように体を震わせ、次いで激しく頭を振った。
「じゃあ、大丈夫じゃないか。姉さんは俺に危害を加えるつもりはない。それだけで十分だと、俺は思うけど」
佳奈子は呆けた顔をして、自分とは全く違ったことを考えているらしい弟を見つめた。そうではない、と言い差して、諦めたように言葉を呑んだ。間違いならば間違いのままでも構わない、それで万事が全て巧く収まるとするのなら。
「姉さんは、ここに残るの?」
和紀は何事もなかったように背伸びをしている。
「あ、うん……和紀が帰ってくる前に叔父さんに話したんだけど、仕事は辞めたの。少し社内の方でトラブルがあって、それで嫌になって。本当は電話で報告だけするつもりだったんだけど、昭君の声を聞かされたら無性に懐かしくなって、和紀に会いたくなっちゃったんだ」
「じゃあ姉さん、無職ってわけか。ここに残るには都合がいいね。叔父さん達も帰してくれそうにないし――叔父さんが怒ってたのは、きっと姉さんが今まで自分たちを頼ってくれなかったことにだよ。あんな顔してても、福岡の方で大きな事故や事件のニュースが起こる度に心配してたんだから」
言葉に刺はなく、むしろ労るような調子で和紀は笑んだ。この町は姉に相応しい土地であるように、和紀には思えていた。思春期の頃から傷付くことしか知らず、成人してからも辛酸を舐め続けてきた姉の心を、この小さな土地独特の長閑な空気は癒してくれる。
和紀の願うものは姉の幸せであり、決して謝罪や葛藤への決着などでは無い。それを敏感に感じ取っているからこそ、佳奈子はまた苦しんでいた。佳奈子が与えたいと思うものと、和紀の望むものとは、似ているようで違っていた。
でも私は和紀たちと一緒にいられない――小さな声で呟いた佳奈子は、視線を伏せた。。
「昭は俺に似てた?」
三つ目の煎餅を手に取りながら、和紀は何でもない話のように切り出した。考えていたこととは全く違う、虚を突かれて佳奈子は面を上げる。二言三言、質問の意味を確認するように言葉を反芻させた後で返した。
「似てないかな……やっぱり従兄弟だし、和紀もそう思ってるでしょう?」
「似てないね、確かに」和紀は軽く溜息をついた。「ガキの頃の俺には、今の昭みたいな可愛らしさなんて無かったし。昭は俺と違って、幼稚園で友達のお弁当箱をひっくり返したり言いつけを破って買い食いなんてしない。小さい頃姉さんの言いつけを全然守らなかった俺と違い、叔母さんや叔父さんや俺の言うこともよく聞く。でもね、俺と一緒で、俺にべったり甘えたりする。兄に一緒に遊ぼ、兄にトイレに付いてきてって。他にもこれ兄ににあげるって、森で拾ったドングリくれたり。俺がどんな人間だとか、そんなこと関係無しに、ただ兄ちゃんって人に甘えたいだけなんだよね」早口にここまで告げてから、溜息とは違う、呼吸を整えるような息を軽く吐き出した。「だから……俺も、面倒なことは考えたくない。姉さんに考えて欲しくもない。俺には姉さんがどういう人間だとか、どんなことをしたとか、関係ないんよ。そんなこと考えても考えなくても、姉さんは俺の姉さんなんやから」
ぽかんとした顔をして、佳奈子は思いだしたように口を開いた。自分の中で起こっていた葛藤などはとうに忘れさせられていた。
「でも、逃げないで考えなきゃいけないことは沢山あるのよ」
「もう沢山考えたやろ、姉さんは。考えたかいここに来ちょるんや、この町に来てまでそんな黴臭いことを思い出さんでもええよ。叔父さんも叔母さんも俺も、皆忘れてやって来られちょる、姉さんもきっと同じようにしてやっていけるんよ」
最後は少々投げ遣り気味に、言いたいことだけをいうと、和紀はお休みと告げてさっさと席を立った。お茶はまだ湯飲みに半分ほど残っていたが、それも乱暴に流しに捨てた。台所の電気を消すと茶の間に僅かに洩れていた光もなくなり、部屋は佳奈子ごと完全に孤立した。虫の音も窓を閉められて疎遠にさせられていた。
和紀が台所から戻ってくると、佳奈子はまだ同じようにして座っており、弟に向けてお休みを返した。言われた和紀は少しだけ姉に視線を向けて、困ったように口を尖らせると、そのまま部屋に立ち戻っていった。結局のところ、和紀も口先に思い付くままに姉を留めようというだけで、何一つ分かっていなかったのである。