三

 佳奈子は宛われた部屋に入ると、電気を点けることもなく、ベッドに寝転がり少しくすんだ色をしている天井をぼんやりと見つめていた。闇に浮く木目は、それだけでもう、ぞっとしてしまうような気味の悪さを表情に湛えている。人の温かみを感じられないのは、普段は使われていない証拠であった。
 暗闇に溶かされてしまいそうな吐息が、仰け反らせた白い喉から出た。
 何かある毎に――いや何もなくとも一日の終わりごとに、佳奈子は薄暗い天井を見上げてきた。天井板を外し、今までに触れてきた色々なことを収め、取り出し、旧いものをどんどん奥に押し込んでいったのである。中身は、大抵の場合、二度と手にしたくないようなものばかりだった。彼女の記憶は、じめじめと湿っている天井裏のイメージによく合わさっていた。
 最初から分かっていたことだけれども、やっぱり今日は疲れたな、と思いながら、佳奈子は真っ白なシーツに付けてしまった窪みの大きさが気になっていた。寝れば乱れるのは当たり前のことだと思いながらも、どうしても気になって仕方ないのである。体も自分のものでないように掴みきれず、このまま目を閉じても眠れそうにはなかった。
 落ち着かないまま、部屋の外に出る。そっと閉められたにも関わらずドアは軋み、耳障りな音を廊下に残した。板敷きの廊下は、ひんやりとした夜の冷たさを佳奈子の素足に直に通してくる。土踏まずを心持ち持ち上げつつ、黒に塗られた窓の外に歩み寄る。漏れでる光を収めた窓ガラスは、息を吐き掛けると白く曇った。それも一瞬のことで、すぐに露と消える。哀れになるほどの短さが不思議なくらいに可笑しくて、佳奈子は、何度も息を吐きかけては露と散らした。
 成程、叔父さんがこの町を選んだのはこの鈍磨な空気が気に入ったのだろうと佳奈子は呟く。ずっと会っていないまでも、彼女には、父への好悪の感情に於いてまで似通っていた叔父の考えることは感覚的に分かっていた。近隣は深い渓谷に囲まれ、人間はほんの少しの土地にへばりつくようにして住処を定めている。厳しい自然の織りなしている冷ややかな空気は、人里の暖かさと交わり、独特の穏やか且つ隔絶的な境を作り出しているようである。一度受け容れられれば安穏として永遠とも思われるような日々を送れるのだろうが、何ら関わり合いのない一家が入り込んできて、それまでの過程にはそれなりの苦心があったに違いない。申し訳ない気になっていた。そうせざるを得ないようにしたのは、間違いなく彼女であるからである。
 半歩ずつ歩を進めているうちに、廊下の、玄関寄りの突き当たりの階段まで出た。佳奈子は逡巡することなく足を階にかけた。衣擦れの音を気にしての、緩慢な動作ではあったが、一分と掛からずに和紀の部屋の前まで出る。そこまで来て、彼女は、自分は何をしたいのだろうと考えてみた。今日、十年の時を置いて会ったばかりだという弟の部屋まで来て、こうやって立ち尽くして何になると言うのだろう。自分のことだからこそ、その問いにはっきりとした答えのないことは知っていた。
 こうして立っているだけでも、本当はいけないことなのである。存在は平穏を揺らす。彼女は、水面に軽い揺らぎをもたらす木の葉ではなく、波紋を作り出す小石なのだ。揺らぎに押し出されてしまった水は、もうコップの中に帰ることは出来ない。
 ほっそりとした首を、指先の冷たさが突き刺す。流れていった指は、胸元まで滑り落ちたところで、止まった。
「昭君」
 トイレにでも起きたのだろうか、僅かしか見えない暗さの中、昭は動物柄のパジャマを着て、眠たげながらもはっきりと開かれた目で佳奈子を見つめている。
 何も持ち得ぬ空気の漂う、秋の夜ではあった。夜は無意味な緊張感を作り出しては、自ら闇の中に葬っていく。粛々とした葬列は、二人の間を静かに掻き分けていた。
「あ……」
 ぽかんと口を開けて、昭は、間の抜けた声をあげた。
「怖い」
 声はそれだけだったが、佳奈子の耳にまで確かに届いた。息を潜め呑み込む音が聞こえたように、佳奈子には思えていた。嫌な感覚が、扉の向こうから、草の触れ合うような静かな音を鳴り響かせて近付いてくる。
「怖い? 何が怖いの、昭君」
 声はかすれていた。温度のない言葉が、行き場を失い逃げていく。自分の早合点に気付き、それを懸命に追い掛け、取り繕うだけのことに、佳奈子は幾ばくかの如何にも不自然な時間を要した。
「トイレ行くの、怖いの?」
「うん」昭は頷いた。「一人で行こう、思ってたけど」
「そう、和紀を起こすのは悪いから、私が一緒についていってあげる」
 優しく掛けられた言葉にほっとしたのか、昭は少し厳しくしていた表情を緩めた。
 昭よりも、佳奈子の方がほっとしてはいた。今の相手が弟や他の人間ではなく、この小さな甥っ子で良かったと。そして自分の心の中にある気持ちに暗澹とする。幾度追い返そうとしても追い返しきれなかった影は、襞の中に巣くったまま、ことある毎に奥深いところから這い出して佳奈子を責め立てていた。
 トイレのオレンジ色の明かりは、頼りなさそうに滲みながら、自分とその周囲を主張していた。
「そこにいる?」
 電気をつけ、ドアを開け放しながら、尚も不安で堪らないように声を掛けてくる。
「居るわよ」
「ずっと居てね。いなくならないでね」
「大丈夫」答えながら佳奈子は、ここで自分が消えてしまったらこの子はどれだけ不安がるのだろう、怖くて恐ろしくてどうしようもなくて、この明かりだけを頼りに、朝の来るまで狭い牢獄の中でじっとしているに違いないと思う。ところが朝はやって来ないのだ。もうすぐ来るはずだと信じながらも、信じてしまっているが故に、神経は時の流れを堰き止め遅々としたものに変えてしまう。真夜中のメリーゴーラウンド、緩やかな心臓の鼓動は疲れ果て眠りにつくまで繰り返される。そうしてしまえば怖くなどない、眠ってしまえば、温かな自分の世界に身を置けるのだから。
 排水音に、佳奈子は組んでいた腕を揺すりなおした。洗面所で手を洗わせ、階上へまた連れていく。「お休みなさい」「うん」昭は頭を落とすと、覚束ない足取りで部屋の中へ消えていった。
 佳奈子が踵を返そうとしていると、入れ違うように和紀が出てきた。
「姉ちゃん、眠れんの?」
 恐らく、昭の出ていったときから、目は覚めていたのだろう。ぼやける視界に紛れ、細部まで窺えない表情は先程のそれよりも大人びて見えた。
「多分、眠れるわ。和紀は学校あるんでしょう、明日も。私のことは良いから、あなたも早く寝なさい」
「幼稚園児じゃあるまいし」和紀は憮然とした面持ちでいたが、ふと思い付いたようにそれを和らげた。「ま、仕方ないか。姉さんにとって、俺は幼稚園児のままなんだからね」
 和紀は自分が昭に同じようなことを言っているのだと思い出し、口元を緩ませ息を押し出した。「じゃ、お休み。姉さんこそ寝坊したりしないようにね」
 部屋に帰ろうとする和紀を見て、置いて行かれるのだ、という意識の走ったのはこの時である。
 今までずっと一人きりで居ることに慣れていたはずの佳奈子を、まとわりつくような孤独感と置き換えがたい寂しさが襲う。それはそっと近付き、肩に手を置いて背中に寄り掛かっていた。
 不安に胸を押し潰されそうな気がして、佳奈子は思わず胸に手を当てた。背中から来るものではなく、体の内側からじわじわ浸みだしてくる彼女の罪である。遠巻きにするように、不安の塊を千切っては投げ千切っては投げしていた。皆一様にして、同じような声音で同じような言葉を吐く。
「人殺しが」と。
 今に始まったことではない。そう言った意味で、彼女にとって夜は具体化された喪失感であり、それ以外の何物でもなかった。気の狂いそうになり、手近にあったものを壁に投げつけることなど、珍しいことではなかった。時に眠りを妨げられた隣人が壁を蹴り返してくるとき――人の確かに存在しているという実感を、自分の意識を保つ頼みとしていた時期もあった。
「姉ちゃん?」
 佳奈子は、はっと息を吐いた。そして慌てて取り繕うように、尋ね返した。
「どうしたの」
「いや、姉ちゃんこそ。ぼーっと突っ立って、天井見上げて」
「私が?」
「うん。俺が声掛けるまで、何か知らないけれど」
 自覚はなかった。天井を見上げてみても、走る影は何もない。
「姉ちゃん」
 和紀は、強く呼びかけた。狂気に近い、怯えにも似たような様子をまざまざと見せつけられては、声を掛けずにはいられなかった。
「いきなりのことで、俺もまだよく分からないけれど、明日から、色々と話しようね。知りたいこといっぱいあるし、知ってもらいたいことも沢山ある。だから、すぐに居なくなって欲しくはない。卑怯な言い方になるけど――姉さんが俺に負い目を感じてるなら、それが穴埋めになると思って、そうして居て欲しい」
「和紀――」
「何なんだろうね、今日の俺。変だ。ホント、何でこんなことばっかりしてるんだろう。分かってるのに、自分でそうしたいと思ってるみたいに滅茶苦茶だ」
 ふと視線を外すと、和紀は、自分を嘲笑うように軽く喉を鳴らし、心配そうにしている佳奈子を安心させるように笑って見せてから部屋のドアを閉めた。することを無くした佳奈子もまた部屋に戻る。この家に来て良かったのだろうか。会うべきでない人間に会って、本当に正しかったのだろうか。まだだと思っていた小石を投じることは既に行われ、波紋はもう起き始めてしまっているのだろうか。ぼんやりと天井を見上げながらの逡巡は、疲労感によって眠りに無理矢理引き込まれるまで続いた。シーツのことは、忘れてしまっていた。

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