四
「帰るか」と友人である渡部に声を掛けられてから、和紀は考え込むような素振りをしていたのを止め、億劫そうに腰を上げた。
「今日、部活は」
「今日から期末テストの一週間前。いいよな、幽霊美術部員は。テストが近いだとか、そういう認識も薄くなるのかね」
秋分の日の近い、夕方のことである。部活のない所為で、学校は美術館のような静けさを保っていた。昇降口に出ると、渡部は如何にも寒そうに身を縮こまらせ、「寒ィな」と和紀の方を振り返り笑って見せた。和紀は追従するように笑っただけで、鞄を下駄箱の隅に立てかけた。
「冬はやだよな、何にもないこの町が、忘れられてしまうみたいで」
「忘れられても、忘れてしまえば寂しくなんて無いけどね」
靴を履いていると、早足で駆け抜けていこうとしていたスリッパの音が止まり、馴染みのある声が「藤村君」と背中に被さってきた。
「あ、宮下先輩」
和紀はさも興味なさげに振り向いてから、いつもらしくない和紀の表情に小首を傾げているのを見て、取り繕うような笑みを取りだし、そうしてやっと、徐に口を開いた。
「宮下先生に、叔父さんからの伝言を言付かってたんです。次の土曜日にいらっしゃるときに、会わせたい人がいるから先輩も一緒に来て下さるようにって。伝えておいて下さいますか?」
「私も?」宮下千絵は少し驚いた風に自分を指差し、和紀の頷くのを見て、分かった伝えておくわと答え、また廊下の向こうへ駆けていった。
その背中に挨拶をすると、和紀も表に出た。途端に横っ面をはたいていった風は錐のように鋭い。頭を覆いがちな靄を吹き払ってしまうみたいだ、思いながら小石を蹴ると、それはころころ転がって側溝の中に落ちた。
「何の話してたの」
「ん、ちょっと」
この友人にも話すときはあるのだろうか、和紀は校門前の記念樹の、傾いた影の隙間から見える太陽に問いかけてみた。でも、もしかしたら、大した問題ではないのかも知れない。少なくとも、側に座っているこの友人のような、外の世界に目を遣ることに気を取られて、町に潜んでいる閉鎖性を身に帯びていない人間にとっては。
「……ほら、あの。昨日に話した姉さんのことでね」
「あ、あれか。福岡で一人暮らししちょったけど、戻ってきたって人。珍しいよな、わざわざ福岡からこんな何にもないとこに来ようだなんて」
「うちがあるから」
「俺だったら、一度出てったら帰ってくる気になんてなれないけどな」
まだ薄暮に追い立てられる時間でもないから、歩調は緩やかだった。前後を見れば、同じ制服を着た生徒の帰る姿を見ることもできた。薄く伸びた列が稲刈りのとっくに終わった田圃の海に添えられている。
「三年生、ああしてると受験前だって思えてくるよな」
英語の単語帳を手に、問題を出し合っている二人組の女生徒を見て、渡部は憂鬱そうに吐息を漏らした。
こいつにしては気弱な態度だ。和紀は電柱の影が自分の体を横切り、渡部の頬にまでかかっているのを見た。いつもの渡部は、何にも動じない飄然とした男で、宮下先輩や先生に同学年の友達に対するような口を利いても、全く嫌みに聞こえないような男なのである。
ただ、高校に行くにはどっちみち隣の町へのバス通学になるが、成績のよい生徒はもう一つ向こうの学校への進学を希望するから、渡部も自分の成績については無関心でいられないのだろう。そう言えば来年は、自分も高校へ進学するのだ。和紀は当たり前のはずのことを、戸棚の奥から古ぼけた写真を見つけ出したような、そんな気持ちになって思い出していた。
新しく引き直された真っ白い停止線に続いて、泥にまみれ薄れた文字でとまれが書かれている。塀から突き出ている南天の実の幾つかは鳥に食べられてしまったらしい。最近この界隈に姿を見せる猫の親子は今日は何処かに行っているようだ。マンホールからは、低い唸り声が微かに聞こえている。電線に止まっている烏たちは、不気味な黒い瞳でどこか遠い方を凝視している。細々とした列はまだ続いている。それらは先程から、和紀の脳裏に古いようなイメージを与えていた。一つ一つが無意味に佳奈子へと繋がり、雲散霧消しては次のイメージが産まれてくる。心臓のなだらかな鼓動のような、何気ない永遠ではあった。
渡部が「ん?」とばかりに俯き加減にしていた首をもたげると、そのまま斜めの方に視線をやった。
「あれ、昭君」
虚を突かれ、和紀はまず後ろの田圃の方を向き、何故後ろを向いたのか分からないままに、慌てて視線を戻した。
「――姉さん?」
前に出てきたのは、傍目には何でもない光景だった。手を引いて歩いている姉と弟、子供を産んだことがないと分からせる少女らしい影がなければ、親子に見る方が当たり前だろう。佳奈子に手を引かれた昭は、嬉しそうな足取りで佳奈子の前に出たり後ろに引っ込んだりしていた。
駄菓子屋の薄手のビニール袋は、掛け替えのない宝物入れのように小さな手から提げられていた。その光の反射具合が波打つようで、特に眩しいわけでもないのに、和紀は一瞬固く目を閉じたのである。
「あれがお前の言ってたお姉さん? 綺麗な人じゃん」
佳奈子は、白い長袖のブラウスに袖を通していた。随分と薄手の服装ではあるが、寒そうにはしていなかった。清楚なイメージだけれど、汚れを知っているから、白を知らず知らず引き立てることが出来ているんだろうと、和紀は思った。何も知らずにただ綺麗だと言える渡部が、羨ましかった。
和紀は――昭を、幼い頃の自分と重ね合わせて見るしかできなかった。ただ、佳奈子の嬉しそうな表情を見ていると、無性にやるせなく哀しかったのである。
烏たちは一声高く無くと、塒としている鎮守の森へ羽ばたいていった。
その日の夕食後、和紀はテスト勉強をするからとしなくてもいい宣言をし、早々に自分の部屋に立てこもった。気の進まない自分自身を鼓舞するように、苦手な数学の教科書やノートを次々と開いていった。
本当に勉強をしたいと思っているわけでもなく、一人きりになりたくなったのでもなかった。和紀は、自分の考えが幼稚じみていることを自覚しながら、着けた能面の内側では別のことを期待し図形や数列を目で追っていた。
果たして和紀の期待半ばに思っていたとおり、問題集をまだ一ページも解き終わっていないうちに、ドアを叩く音がしたのである。自分の考えが間違っていなかったことに安堵する心を押さえ、声を無理に低くして返事をすると、ドアは開いて、林檎ジュースの入ったコップと小さなあんパンとが二つ、お盆に乗せられたまま机の隅に置かれた。
「大きな電気を点けないで勉強してるの? スタンドだけだと気持ち分捗るのかも知れないけど、目にはあまり良くないからきちんとしなきゃ」
「うん、でもいつもこうしてるから」
続けてありがとうと言おうとして、和紀は無意識に肩を震わせた。覗き込む佳奈子の肩は、軽く髪の毛に触れていた。たったそれだけのことで、自室で佳奈子と一緒にいることへの緊張感に敏感になっていた和紀の感覚はくすぐられた。次には礼を言うことも忘れ、解いている途中の参考書に視線を走らせる佳奈子の表情を盗み見た。十も年上の大人が、さも面白そうに中学生の勉強を見ている。
「きちんと勉強してるんだね。邪魔だったら、御免なさいね」
息はつまりそうだった。何かを喋らなければと開いた唇は、僅かに吐息を漏らしただけであった。二人の存在を受け容れることに対しこの部屋は適していなかった、窒素じゃなくて水素の充満してるみたいだと、和紀は顔をしかめた。
「あ……、ここの計算、間違ってる」
頓着していないのか、佳奈子は逆の肩越しから手を伸ばすと、丁寧に消しゴムをかけた。今度は背筋の方から鼻の先の方まで震えが走る。二度、三度と、今度は括約筋の方まで痺れが降りてきた。薄い壁一枚を敷くこともなく間近で姉を感じるということに対して、心はまだ慣れるような段階にはなかった。
次には何が来るのだろうと思うと、怖いことは一つも来るわけがないはずなのに、泣きたくなりそうで仕方がなかった。心臓の鼓動の好き勝手に暴れているのも止められずに、和紀はただ、ほんの少し薄汚れている解答欄を見つめていた。
佳奈子はあからさまな弟の様子に少し寂しげな苦笑を漏らすと、声を明るく整え、和紀の頭にぽんと手を置いた。
「こんな調子で冬休みが補修授業にでもなったら、私が昭君に文句を言われちゃうんだからね」
和紀はそれを聞いて、金縛りでも解けたように、急に力が抜けていくのを感じた。左手を伸ばすと、佳奈子の持ってきた林檎ジュースを、甘みが酷く喉を焼くにも構わずにゆっくりゆっくり口に運んだ。それでも姉の方を見ることはせず、シャープペンシルは右手に握ったまま、背中はいつもよりも前のめりにぎゅっと縮まっていた。
佳奈子は何が気になるのか、時折天井に視線を運んでいる。
「勉強、分かるんだね」
「これくらいは……ね。中学も、きちんとした形で卒業することは出来なかったけど、勉強だけは一応してたから」
「高校、夜学に入ってたって言ってたね。そう言うことも俺はきちんとは知らなかった」
「ごめんね、本当に。でも、私も意地悪したんじゃなくて、ただ和紀に迷惑を掛けたくないって気持ちだったの」
「何度も言わなくても、分かってるよ。俺も、まるっきりガキってわけじゃないから。でも、何となく愚痴ってみたかった」
「うん」佳奈子は一度体を引き上げてから、もう一度落とした。「人間、変わらないものだと思ってた。変わってるように見えて、実は同じ所ばかりぐるぐる回っているんだって、そう信じてたのね。でもそんなのは最初からの嘘だった。ごめんね和紀、もう少し早く目を逸らすことを止めれば、嫌な思いさせなくて済んだのにね」
「だから、それが子ども扱いしてるんだって」
先程までの鼓動は嘘のように収まり、今度はもう止めにしたいとの不快感がこみ上げてくる。思わずちょっと邪険にするような声を上げて、和紀は佳奈子を振り仰いだ。この日一番和紀をたじろがせた言葉の出てきたのは、ちょうど、その時であったのである。
「和紀、今日の夕方、私たちの後ろを帰ってたでしょう」
驚いていることを隠せていない視線で、和紀は佳奈子を見上げた。
「お友達と一緒みたいだったから、邪魔かなと思ってこっちから声は掛けなかったけれど」
和紀は、どう返事をしようかと戸惑った。具体的な言葉は何一つ出ず、喉仏に引っ掛かったまま、背中の裏から爪先までをぐるぐる駆け巡るだけである。
昭を取った佳奈子に嫉妬しているのか、佳奈子を取った昭に嫉妬しているのかどうかすら、和紀には判別しかねた。上ってきた感情には名札が付けられていなかったのだ。否応無いやり取りではあった。
「昭君ね、色々とお喋りしてくれて楽しかったわ。自分のことだけじゃなくて、和紀のことも、友達のことも。高橋商店て駄菓子屋さんでお菓子を買ってあげようとしたら、和紀もよく連れて行ってるのね、店の小母さんに丁寧なご挨拶をされちゃった」
「……あの」
「どうしたの?」
「あ、うん……。叔母さんには内緒にね。その分、昭のおやつが減らされちゃうから」
静かな笑みを湛えて頷く素振りを見、和紀は、秘密めかした空気が自分を鈍磨にしていくのを感じた。頭の芯の方から、鈍色の輝きが浸食していくのである。だが不快感はなかった。何と表現すればよいのだろうと辞典を手繰ってみたが、丁度合うような言葉は見つからなかった。
「姉さん、明日もまた来てくれる?」
足を止めた佳奈子は、迷惑じゃないのなら明日も来るわねと答えて扉を閉めた。
分からなくても、それはきっと後から分かってくるのだから、今は分かろうとしなくても良いのかも知れない。自分に誤魔化しを入れると、和紀はシャープペンシルを取り直し、今日のうちに出来る限りの勉強を終わらせるべく、先程よりも真剣に走らせ始めた。