五
コト、コトと鍋の蓋が鳴った。千絵はシチュー鍋の火を弱め加減にしながら、あっという間に真っ暗になってしまった空に視線をやった。つるべ落としという言葉が妙に納得できてしまうくらい、夜が駆け足でやって来ている。
隣の家からは、子どもの笑い声がテレビの音に入り交じって流れていた。千絵はそれを聞いて、七時が来たことを知った。今日はもう酒は飲まずにお暇するという電話があったのが十分ほど前のことだから、あと五分もすればバイクの音が聞こえてくるはずだ。
聞き慣れたエンジン音がして、暫くすると玄関の戸が開いた。
「お帰りなさい。すぐにご飯の支度できるから、待っててね」
生徒たちの間からも寡黙なことで有名な宮下浩一は、娘のそんな声にも大して反応を示さずに着替えを済ませると畳の上に胡座をかいた。そういう態度はいつものことなので、千絵も特には気にしていなかった。逆に、このお父さんがお喋りだったら嫌だと思う。千絵は父親の男らしさが滲み出てくるような、苦み走った表情に浮かび出てくる寡黙さが好きだった。
盆に乗せたシチューとハンバーグを持っていくと、浩一は和紀の叔父から贈られたネズミ色の長襦袢を着て、雑誌に目を通していた。千絵も昔一度目を通してみたが、書いてあることの難しさにあっさり挫折したことのあるものだ。
向かいに腰を降ろすと、静かな夕食が始まった。しょう油を使ったハンバーグのソースは少し薄いめにしてある。浩一は美味いとも不味いとも言わなかったが、ただ黙って箸を運んだ。そういうときは取り敢えず不味いとは思っていない。味付けに注文があるときは、一旦箸を置いてから淡々と伝える。千絵にしてみれば気難しい厄介な客だった。
互いの皿が空になってから、千絵は尋ねた。
「和紀君のお姉さんって、どんな人だった?」
「そんなに気になるなら、来れば良かっただろう」
浩一は急須に湯を注ぎながら、素っ気ない態度で答えた。
それが出来たら苦労しないよ、と心の中だけで千絵は反論した。お姉さんを見てしまい自分の負けだと思う、それが怖いからこそ一緒に行けなかったのだ。本当だったら、時々そうしているようにバイクの後ろに乗せられてあぜ道の中を走った西の山際にある和紀の家に着き、取り留めもない話をしたり昭と遊んだりしているところだった。
中学生にもなればクラスでも誰が誰と付き合っていたり等という話が出たりして、二人で帰っていようものならお調子者に冷やかされたりするから、遊びに行くなんてことは気恥ずかしくてなかなか出来ない。千絵もそれは同じだった。
ただ、和紀と一緒にいることには不思議なくらい抵抗を覚えなかった。父親同士が交流を持っていて小学校の頃から行き交っていたこともあるが、もっと大きいものがある。
前の道を車の走り去る音がした。
何を考えているのか、いつの間にか浩一は静かに腕組みをし目をつぶっていた。
居たたまれないわけでもなかったが、千絵は下げた食器を洗い終えると、
「じゃあ私テスト勉強するから」と言って席を立った。
家の中で唯一、明るい色調に彩られた自室に入った。黄緑色のカーテンが目を引く。椅子に体を預けゆっくりと目をつぶると、空気の押し出される音と共に心中の理由もない気怠さも萎んだような気分になる。
元々成績は良い方になるし、するつもりだった勉強は昼間のうちに済ませてしまったので、仕方なく国語の問題集を解くことにした。
しかし、十分と立たないうちにシャープペンシルの動きは鈍くなった。考えまいとすることが、抑え付けることで逆に跳ね返ってきてしまう。
和紀自身は覚えていないが、千絵は一度、自分には本当の姉さんがいるのだと聞かされたことを覚えている。その時、とても遠くを見定めるような視線をしたことは、ずっと心に引っ掛かっていた。自分の方を見ながら、もっと別の、時間軸すら焦点からぼかしていたような気がしたのだ。
萎んでいた面倒臭い気持ちは完全に息を吹き返していた。椅子を降りると、側のベッドに仰向けになった。ちょうど窪んでいる所に頭が来て、引っ張られた喉に少し痛みが走った。
今頃和紀君はテスト勉強してるのかなと、ふと思う。最初に会ったのは昭が生まれる前の頃だ。早くに両親が離婚し親戚付き合いも殆ど存在していない千絵にとって、和紀を含む藤村家は最初に会ったときから貴重な親戚候補だった。
最初は姉弟ごっこのようなものだったのかも知れない。ただし今は、学校の中でこそ先輩と後輩の関係を取り繕っていても、本物より本物らしい姉弟だと密かに自負していた。千絵は今までずっと、和紀のことを弟として見てきた。姉として慕われてきた自信もある。だからこそ、その自信を根底から奪いさり今まで続いてきた関係を壊してしまいかねないまだ見ぬ佳奈子の存在は、昔から大きかった。
悪い結果を見たくなかったから、テスト勉強が忙しいなどと口実を作って行かなかったのだ。後回しにしていると言われても否定する気はなかった。卑怯でも何でも、弟を失いたくはない。それが千絵の本音だった。
でも、和紀君は来なかったことをどう考えているのかなと思うと、心配でやりきれなくなる。会わないことで自分との距離がまた離れてしまう、そんな嫌な予感も心の隅にこびり付いて離れようとしてくれなかった。
嫌な考えの連鎖を断ち切るように、千絵は起き上がると再び問題集に向き直った。そのまま眠気に襲われるまで、波のようにうち寄せてくる雑念を振り払いながら、千絵は丸い小さな字を白い解答欄に埋め続けた。
次の日の昼下がり、千絵は少し離れたところにあるスーパーまで買い物に出ていた。学校帰りだとついうっかり忘れてしまうこともあるので、日にちが持たないものは別にして大抵のものは週末にまとめ買いするようにしている。
満杯の買い物袋をかごに入れ、土手沿いを走った。遠くの山の稜線までくっきりと見えるくらい、空気の澄んでよく晴れている日だった。長袖を着ていても差し込んでくる風は冷たく、寂しさも凍り付かせて分からなくしてしまう冬がやってくるのだと実感させていた。
橋を越えて少しした辺りで、千絵は珍しい人影を見付けた。何を探しているのか、下を見ながら河原をゆっくりと歩き、時折しゃがむような仕種を見せている。
千絵は自転車を止め、河原に降りた。
この川の上流で、ダムの建設問題が持ち上がっている。それが良いことなのか悪いことなのか、知っていることが少なすぎてよく分からないと思う。ダムが出来たら何が変わるのか、千絵たちに向かってきちんと説明しようという大人は居なかった。
「藤村先生、こんにちは」
父親に倣い、俊介のことは先生を付けて呼んでいる。振り向いた俊介は声の主が千絵だと分かると、顔を柔和に崩した。いつものような和服ではなく、緑色のポロシャツに黄土色のズボンをは穿いている。
「ああ、千絵ちゃん。何処かにお出かけかね?」
「いえ、買い物の帰りです。……何をしてらしたんですか?」
そんなに気になる様子だったかねと苦笑すると、俊介は河原に落ちている無数の石から一つをひょいと摘み上げた。
「見てごらん。軽石に苔がむしてる」
屈み込み、白い肌に粟のような穴の開いているそれを拾い上げた。緑色の苔が小さな冠を作っている。特に珍しくもないもののはずなのに、千絵はそれが俊介が持っているだけで金塊のような価値有るものに変わるとすら思えた。
「どのくらいの時間をかけたか、少なくとも千絵ちゃんや私が生きてきたよりかはずっと長い昔に火山から産まれて、この石はここにあるんだ」
そう言うと、草の生えている辺りに放った。
「川には魚も泳いでいる。石一つでもこれだけの時間を持っている。そんなものが集まって出来ているこの町は、何一つとして手を加える必要のない、美しい町だ。ましてやそれを壊すなんて、以ての外としか言い様がない」
ダムのことを言っているのかなと、千絵はぼんやり思った。
俊介は構う様子もなく言葉を継いでいる。横顔を見てみると、また少し痩せたようで、彫りが一層深くなったようにも感じられた。
「しかし、人間というものは不思議だ。石や川筋は気の遠くなるくらいの月日をかけて徐々に変わっていくというのに、人間はほんの少しの期間で変わってしまう」
何が言いたいのかは千絵にはよく分からなかった。ただ、そこに寂寥の感がこもっていることは声だけではなく表情を少し盗み見るだけでもよく分かった。目を細め山の向こうを向いている体は、風に吹きさらされる中でも微動だにしなかった。
「藤村君のお姉さんって、どんな人なんですか?」
うん、と少し身じろぎをした。すぐには答えられないようだった。千絵は返事が返ってくるのを辛抱強く待った。
暫くすると、
「和紀とはあまり似ていないかな」と透き通った声が投げかけられた。
そして深呼吸をするように深く息を吐くと、
「どちらかと言えば私に似ている」と付け加えた。
誤魔化そうとしているのか、真剣に答えているのか、それすら千絵には分からなかった。振り返ると、俊介はいつものように微笑んだ。それで、千絵も救われた気がした。
救われなければどうなったのかは、考えなかった。たとえ十秒前だとしても、過ぎ去ってしまったこと。本当に人生というものを生き尽くすなら、全力で前を向かなければならない。そうしなければ、残されていったものに失礼だから。父親からの受け売りだが、千絵はその考え方に疑問は持っていなかった。目の前にいる藤村先生がどう生きているのかについては、思い及ばなかった。
千絵が笑い、俊介もまた少しだけ笑みを返した。どちらも静かだった。
そうしなければならなかったかのように、二人はそれ以上の言葉を交わさず、ゆっくりと互いの家路に就いた。二人の背中を見送るように、枯れた草が風に薙ぎ倒されてカサカサと打ち震えていた。
その日の夕食後、千絵は俊介と河原で話したことを喋ってみた。浩一は全部を聞き終えた後で、頷くように首をゆっくりと上下させた。
「それで、藤村先生と話をして千絵は何を思った」
「どっちの方で?」
「どちらもだ」
もやもやしててあんまり分からないと答えると、そうかとあっさり終わらされた。何でもいいから言って欲しいとも思ったが、我が侭な気がして千絵は尋ねそびれた。必要ないようなことまで小難しくしてしまって煙に巻いてしまう辺り、大人は狡いと思う。ただ反論されるのが怖いから口には出せなかった。
明日は学校がある。会ったら、お姉さんについて聞いてみた方が良いのか。それとも、あっちから言い出すまで待ってた方が良いのかな。
千絵にとっての佳奈子は今和紀君の側にいる佳奈子に他ならず、それ以外の何者でもなかった。期末テストがあることも忘れ、誰にも聞かれてはいない部屋の中で、わざとらしく大きな溜息をついた。