六

 和紀の期末テストの成績は、あまり芳しいものではなかった。担任の教師は一学期の頃から上り調子だったのになと訝しがったが、和紀にしてみれば原因は分かりきっていたことだったから、答案用紙は別に気にされることもなく鞄の奥底にしまい込まれた。今はそれよりも大事なことがある。テストで良い点を取ることなんかより、そちらの方が余程重要だった。
 窓から見えるはずの山々は白い靄に覆い隠され、柔らかな雨が降って地面に積もる落ち葉を湿していた。まだ夜でもないのにのっそりと薄暗い中を、傘が敷石のように連なってもぞもぞと動いていた。
 渡部は部活へ行くと言った。バレー部は雨の日だと体育館で練習をするから、天気が悪くても行かなければならない。当の本人はそのことを億劫がり嫌がっている風だった。平時は夏だろうと冬だろうと外で練習させられているのに、野外の特典である雨の日の休みすら与えられないことに不満を感じているのだろうと、和紀は思っていた。
「だから、先に帰っといてくれよ」
「いや――俺も、部活行く。美術室に居るから、終わったら教えてよ」
「どうしたんだ? 雨宿りか?」素直に驚いた様子を見せて、渡部は尋ねた。和紀が部活に行くことなど滅多にない。時間を潰すのは図書室で本を読んでというのが相場だったから、尚更だった。
「俺だって、偶には顔見せくらい行くよ」
 苦笑して答える。ただ佳奈子に試験の結果が悪かったと伝えるのは気が重かっただけで、部活に行こうと思ったのはほんの思いつきだった。叔父と顧問の宮下教諭とが知り合いだから入部しただけで、これまでにも絵を出展したことはない。それでも咎められることはない。完全に自主性に任せられている部活なのだ。
「じゃ、終わったら迎え行くわ」
 渡部の背中を見送ると、和紀も席を立った。教室を出て、美術室までの廊下を歩く。教室のある校舎を離れると急に周りが静かになった。発声練習をしている合唱部の声だけが雨の音に混じって、微かに聞こえていた。しばらく、雨の日はこういう光景ばかりが続く。南九州にあるこの土地では、真冬でも雪はあまり降らない。陰鬱と言うよりは気怠げと見る方が似合うだろう。
 和紀はとうにこういった風景に慣れきっていたが、賑やかなところで暮らしてきた姉さんはどう思うのだろうと、少し心を留めた。明かりの消えた家庭科室の角を曲がり、蛍光灯もつけられていない真っ暗な階段を上る。こんな暗いところの先にも人がいるということが、いつも不思議だった。ふと何かが現れて、消えてしまいそうな感じがする。小さい頃によく読んだ絵本に出てくるお化けは大抵こんな所に潜んでいて、小さな子どもを脅かしたり時には人さらいをしたりするのだ。あれを読んでくれたのは、姉さんだったかお父さんだったか。
 階段を折り返すと、磨り硝子のはめ込まれた戸から洩れる淡い光が見えた。既に部員達は集まってきているらしい。少しがたついた戸を引き開け、絵も描かないでストーブの周りに椅子を並べて雑談をしていた女子生徒達に声をかけると、よく見知っている同僚達は笑いながら和紀のために一角を空けてくれた。
「珍しい。どうしたの?」
 部員は十人ほどしか居ない。二年生は和紀を入れて四人で、二組の佐古仁美、堀祐子、三組で同じクラスの日高啓子は三人とも女子だった。三人ともストーブに当たっている。残りは一年生だった。
「一応部員なんだし、幽霊でも来るときは来るよ」和紀は笑いながら日高に答えた。「今日は絵、描かないの?」
「今日は開店休業。先生も来ないみたいだから、お喋りの日に決めたの」
「ふーん。放課後まで暇だから、雨が止むまでここで暖まってても良い?」
「良いよ。一応部員なんでしょ」三人は何がそんなにおかしいのか、また声を上げて笑った。
 和紀も椅子の背に学ランをかけて座ると、ストーブに手をかざした。硝子の向こうで鉄が焼けて真っ赤になっている。お喋りがまた再開された。誰が誰が付き合っているだとか、そんなことを喋っているらしい。暫く聞いていると、対象がクラスメートから美術部の先輩へと移ってきた。自分たちのことを喋っていた一年生も、興味津々らしく話に入り込んでくる。和紀は特に興味もなく静かな炎をじっと見つめていた。
 炎の向こうに、誰かの影がゆらり、と揺れた。
 最初はいつまで留まるのかも分からなかったが、姉さんは、少なくとも春まではここに居ると約束したらしい。そう、叔父に聞かされていた。どっちから言い出したことかは知らないが、それで良いと和紀は思っていた。出来ることなら、ずっと一緒に居て欲しい。何処かぎくしゃくとしていて噛み合わなくても、このまま居なくなってしまったらもっと嫌だろう。
 小学校に上がる前に遠く離れてしまった姉さんのことを、忘れたことはない。今まで長い時間を一緒に暮らしてきたけれど、矢張り叔父さん達のことは他人に思える瞬間がある。唯一の肉親だから、姉ちゃんの暖かみをもう一度知りたいと思っていた。だから、巧い接し方を見付けられないことに腹が立つ。何でもっと自然にならないのか。いつも何処かぎくしゃくしてしまう。自分にとって一番大切な人が姉さんであることなんて分かり切ってる筈なのに。
 そんなことを考えていると、不意に自分の名前が耳を打ち、和紀は隣に座っている佐古の方を向いた。
「どうしたの?」
「あのね、今誰が誰と付き合ってるって話してたんだけど、藤村君って、宮下先輩と付き合ってるの?」
「違うよ」和紀は笑って否定した。前にも同じような誤解をされたことがあった。
「違うの?」佐古はあからさまに不満そうな表情を見せた。「ほら、違うって言ったでしょ。藤村君に彼女がいるなんて聞いたこと無いもん」堀にも言われると、不満そうなまま両手を頭の後ろで組み、椅子を前後にぎっと揺らした。
「おかしいな。どう見ても付き合ってるようにしか見えないのにな」
「うちは、父親同士が仲が良いから、前から知ってるだけ」
「あ、そっか。藤村君のお父さんも画家なんだっけ。でも結構お似合いだと思うんだけどな。藤村君顔とか悪くないし、運動そんなに得意じゃなさそうだけど、何か知的な大人って感じするし、優しいし。千絵先輩も、私が男の子だったら好きになっちゃうけどな、あんな可愛い人。ね、本当に好きじゃないの? 隠してるとかじゃなくて?」
「だから、違うって」
 千絵先輩と一緒にいるのにそんな好きとか嫌いとか必要じゃない、という言葉は、からかわれるのが嫌だから流石に口に出さなかった。ただ、少し耳が赤くなったことを佐古達はすぐに見て取ってくすくす笑い合ったが、当の和紀は笑われても気付かなかった。
 話に飽きた一年生が隣の準備室の棚に隠してる漫画を持ち出してきて、和紀もそれを読んで時間を潰した。佐古達に尋ねられたことは、最初のうちはもやもやと心の中に残っていたが、それもページを繰っているうちに忘れていた。

 街灯沿いをこちらに近付いてくる渡部の長身は、遠くからでも、よく分かった。
「雨、あがったな」
 傘と黒鞄を脇に抱え、手のひらをかざしながら、独語するように呟く。
「明日は降るかな」
「分かんないな。でも、冷たい雨になってきたよな」
「雪にならないかな」
「無理だろ。この寒さじゃ、凍えるのは人間だけだ」
 いつもなら会話が続くところで、言葉が切れた。細い明かりの灯る路地を、犬の遠吠えを聞きながら、持ちなれた鞄を手に、昭と散歩しているときのようにゆっくりと歩いた。
 別れる角が見えたところで、渡部がふと口を開いた。口から出た煙草の煙のような白い息が、しばらく宙に留まってから消えた。
「……テスト、どうだった」
「駄目だった」
「俺も駄目だった。俺みたいな頭じゃ、東高は駄目かな」
「まだ一年あるだろ」
「……そうだな」
 それきりまた、渡部は口を噤んだ。表情をちらりと窺ってみたが、何を考えているのかは、よく分からなかった。ただ先の定かと見えない暗がりの中で、その横顔を走る影に、和紀は自分にはない大人の面影を見たような気がした。
「何か、あったのか?」
「いや、別に。ただ何となく、しんみりしたくなって」
 きちんとした答えは返ってこなかった。その内にこめられた感情を推し量るには和紀はまだ幼すぎたし、それとなく敏感に肌で感じるには年をとりすぎていた。仕方ないから、その曖昧さに、和紀は何一つとして一人で処理しきれないでいる自分の姿を重ね合わせた。
「そうか」
 返事は不自然なくらいタイミングが遅れたが、渡部は気にしていなのか、「じゃあな」といつものように別れを告げると十字路を折れていった。
 明日、学校に行くときには畑に霜が降りているかも知れない。そんなことを考えながら玄関を潜ると、佳奈子と昭はすぐにお帰りなさいと出てきた。和紀はぶっきらぼうにただいまだとだけ返した後で、さもどうでも良いことを思い出したかのように「テスト、駄目だった」と付け加えた。
「あら、そうだったの。残念だったわね」佳奈子は拍子を合わせるように答えてから、小さく眉をひそめた。「それって、もしかしなくても私が勉強の邪魔しちゃったからよね。ごめんなさい、和紀」
「いや、姉さんの所為じゃないよ。俺が頭悪いだけだし」
「そんなこと無いわよ。叔父さんからも和紀は成績が良いって聞いてるし」
「叔父さんが大袈裟に言ってるだけだよ」
 視線をまともに合わせることが出来なくて、和紀は顔をちょっと横に背けた。好意からだとは思っても、ちょっとした嘘をついた叔父のことも、その小さな嘘を真に受けて喋っている姉の悪意のない優しさも、うっとうしく感じてしまう。その矛盾が嫌だった。出来ることなら、何も言葉を交わさずに部屋にこもりたい。テスト勉強をしている間はそれが可能だったから良かった。
 きっと、千絵先輩だったら、しっかり勉強しなきゃ駄目じゃないと怒ったあとで、でも和紀君は勉強できるようなタイプじゃないしねと笑って、私も人のことは言えないかも知れないけどと言ってまた笑う。姉さんはそれが出来ない。仕方ないことなんだろうか。望んではいけないことなんだろうか。
 和紀が黙ってうつむいていると、昭がその真下に入り込み、にっと笑った。
「兄に、ばば抜きして遊ぼ」
 手に持っているトランプを見せる。和紀はちょっとほっとした。昭を相手にしたトランプはほとんどがばば抜きばかりであまり面白いものでもないけれど、それでもやっていれば時間は潰れる。遊んでいるだけなら、たとえ顔を見合わせてても、面倒なことも考えなくて良い。
「三人で遊ぶのか?」
「うん」
「良いよ。着替えてくるからちょっと待ってな」
 視線を昭に向けたままそう答えると、和紀は階に足をかけた。どう次の言葉をかけて良いのか分からず、困ったような表情をしている佳奈子の顔がちらりと視線の端をかすめていったが、敢えて無視した。一気に駆け上がらなくても、一歩一歩上っていけば良いんだと、そう言い聞かせていた。

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