七
暗い夜道の中を、千絵は週に二回ある塾から帰っていた。数時間前まではまだ明るかったはずの細道を、自転車のライトが煌々と照らし出していく。口からは白い息が霧のようにもわもわと型を作ろうとしては掻き消えていた。
お父さんは待っててくれてるかな? もし時計を見て帰ってくる時間だと気付いてくれれば、コーヒーを淹れる準備をしながら待ってるはず。コーヒーは苦く、まだ味覚には馴染んではいないが、お父さんが好きだからという理由で千絵も飲んでいた。
千絵と浩一の親子が二人で暮らすようになってから、もう十年が経っている。二人きりでの生活がこれまで特に問題もなく過ごされてきたのは、すぐ身近に似たような環境の家族・藤村家があったからだった。
一人っ子だった千絵は小さい頃から弟が欲しいと両親にせがんでいた。その夢を叶えることもなく母親は千絵と浩一の前から姿を消してしまったが、千絵はそれと入れ違うように念願の弟を手に入れることが出来た。何でそんなに弟を欲しがるようになったのか、千絵はよく覚えていない。ただ、不意に目の前に現れた和紀は、ちょっと無口で暗いところもあったけれど、こちらが言うことには素直で可愛い男の子だった。
そのお手本であるように振舞うよう、千絵は心がけながら成長してきた。だから、父親と喧嘩をしたり母親を恋しがるようなことは絶対にしなかった。
可愛い存在であることは、今も昔も変わっていない。小学校に上がってからも毎日のように遊びに行っていた。同級生の女の子たちと一緒に遊ぶよりも、和紀の部屋でゲームをしたりする方が楽しかった。ちょっと不思議なことだったけれど、和紀は、学校の外で一緒に遊ぶような友達をほとんど持っていなかった。だから、遊ぶときは殆ど二人でだった。
和紀の部屋以外に出入りをしていた記憶は薄い。おじさんとは時々話をしていたが、おばさんは勿論、昭のことも強く印象には残っていない。そういえば、おばさんは独身だったおじさんが迎え入れた人で、最初からいた人じゃなかったと千絵は思い出した。それから昭君が生まれたのだ。
ずっと長い時間を二人で過ごしてきた。なのに、和紀君は本当のお姉さんの方に行こうとしている。もうすぐ高校生になるのだから、ちょっと疎遠になってしまうことは別に不思議なことじゃないとは思いながらも、取られたような気がするのが哀しかった。
気が付くと、もう家の間近まで来ていた。
「あれ」
家の玄関から人影が出てくる。学生服を着たままのそれが和紀の姿だとは、すぐに気が付いた。
「今晩は、和紀君」
ぎくりと、不味いところを見られたかのような顔を見せた。誰かと見間違えたのではなく、それが自分だから、そんな表情を作ったのだと、千絵は悟った。胸に、ちくりと針が刺さったような気がした。
「どうしたの?」
「あ、うん。宮下先生のところに届けてくれってお使いを頼まれて」
「歩いて?」
「最初は自転車で来るつもりだったんだけれど、ちょっと散歩するつもりになったから」
「遠いのに。変なの」
「うん、確かに変かも」
照れ笑いを浮かべる和紀を見て千絵は、いつもの顔だ、と少しほっとした。
「ちょっと久し振りかもね。学校の中でも最近は顔会わせてなかったし。この前お父さんがお邪魔したときも、私、一緒に行かなかったからね」
「あ……うん、三年生は受験前だもんね、仕方ないよ。授業が終わるのも遅いし、僕が帰る時間とは被ったりしないから。でもお正月には会えるしね、じゃ、また」
「もう帰るの?」
足を再び向こうへ運びかけた和紀に、思わず千絵は声をかけた。
「え、だって、もう十時だし。何かあるの?」訝しげに尋ね返されて、千絵も、何でそんな妙なことを口にしてしまったんだろうと、暗がりで見えない耳たぶを赤くした。
「そっか、私、塾の帰りだったんだよね。すっかり忘れてた」
「変なの。勉強で疲れたの? 大変だよね、受験生も」
「そんなんじゃないけど、和紀君だって来年は受験だよ。人のこと言えないよ」
「まだ来年だから言えるんだよ。来年の今じゃ、どこで何をしてるかも分からないし。じゃ、お休みなさい」
ぴんと伸びた背中が四つ角を曲がっていくのを見ながら、千絵は小首をかしげた。しかし何に疑問を感じているのか分からないまま、自転車を門の脇に止めると、背後の山々に押されるようにして玄関へ入った。
しゃがみこんでいる。
その姿を見るのは二度目だった。千絵は迷わず河原に降りると、その痩せた背中に声をかけた。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは。また会ったね」
俊介は振り返り立ち上がると、手についていた土を軽く払った。乾いた土がさらさらと、砂になって落ちた。
「学校の帰りかな」
千絵の制服姿を見て、俊介は尋ねた。和紀と門前で話をした、あくる日のことだった。
「また石を見ていたんですか?」
「相変わらず変なことをしていると思うだろう」
「いえ……ロマンチックで素敵だと思います」少し違うかなとは思いながらも、しっくり来る言葉も見つからなかったので、千絵はそう答えた。
「ロマンチックかね。若く見られているようで嬉しいな」
まだそれ程歳は取っていないはずなのに、そういう表情をするとひどく年老いた印象を与える。お体のほうは大丈夫なんですか、という質問を千絵は飲み込んだ。いつもでさえ血色の悪い顔色が、寒空に長く当たっていたせいか、大分青ざめていた。
「私の顔がどうかしたかね」
「いえ、別に」千絵は慌て、「実は、ちょっと悩んでるんです」と言葉を繕った。
「悩み?」
「いえ、その……大したことじゃないんですけど、和紀君のことが気になって。最近、あまり会って話も出来ていないから。悩みって程でもないんですけど」
俊介は千絵の表情を伺いながら穏やかに笑むと、「和紀も年頃だからね。反抗期みたいなものじゃないのかな」と河原を階段の方に歩き出しながら答えた。千絵も鞄を持つ手を左に換えながらその横についた。
「反抗期? 私にですか?」
「あの子はどうしても、私たちにも遠慮がちだからね。でも、年が近い千絵ちゃんには思い切って甘えられるところがあるんだろう。ところで、」
階に足をかけたところで、俊介は千絵の顔を眺めた。
「千絵ちゃんは、お父さんが嫌いになったりすることはあるかな」
「多分、反抗期になったりはしないと思います。嫌いになる理由が無いですから」
「そうだな。宮下先生は素晴らしい方だ。何においても、私と違ってね」
「でも、父は小父さんのことを尊敬してると思います」
「うん、そうかも知れないな。それと同じことだ。年の近い目上のことは頼りになるものさ。自然と尊敬することにもなる」俊介は微かに頷いた。「でもやはり、私のことに限れば、優れているのは宮下先生の方だがね」
そうなのかな、と千絵は疑問を感じた。他人の家計のことまでは分からないし詮索するのは趣味が悪いけれど、大黒柱の小父さんが寝込みがちなのに生活できているのだから、描く絵はそれだけ凄いんじゃないだろうか。蝸牛のような遅さで、やっと二人は短い階段を登り終えた。
「じゃ、千絵ちゃんも忙しいだろうから、これで失礼するよ」
悪気はなくとも勝手に告げると、俊介はまた川を上流の方へと歩いていった。遠い山はそろそろ天辺に白い冠をつける頃だ。自分の疑問は解消されず、それどころか釈然としない部分が更に積み重ねられたことを知りながら、千絵はその木の葉が離れ北風に打ち震える山脈と男の去り行く姿とをまだ曇っていない澄んだ瞳で、ただ留めていた。