「序・2」

 焦点の定まらないまま、ぼんやりと蛍光灯を見つめていた。首の関節を鳴らしてから、緑色の毛布を取って静かに起き上がる。全てのことを覚えてはいたが、僕を興奮させる要素は一つとしてなかった。
「元気になった?」
 それでも東子さんの声を聞くと、途端に、腹の虫が騒ぎ始めた。地に突っ伏し倒れていた僕を運んでくれたとき、東子さんの体からはラーメンの匂いがしていたのだ。
「お腹減ってるなら食べさせたげるけど。ラーメン、それとも炒飯?」
 準備中の札が掲げられた一階で、僕と東子さんとはカウンターを挟んで向き合った。渡された丼に鼻を近付けると、醤油ラーメンの香ばしさが胃の中を蹂躙していく。空きっ腹には堪える瞬間を、喉に力を込めて貪った。
「何で夜空なんか歩こうと思ったわけ? 行った人は二度と帰ってこれないっていうじゃない。足を踏み込んでしまえば、その人は無くなってしまうって」
「最後の方は聞いたことがないですね」
 丼を傾け行儀悪く箸を向けながら、僕は注釈を加えた。
「でも、言うじゃないですか。夜空の向こうには知らない幸せも隠されているって。あの夜は、僕の他にもまだ二三十人ばかり居ましたよ。他の人がどうなったかは、僕は知らないけれど」
「でも、あれじゃあね。私が見付けなくても他の人が助けてくれたでしょうけど、他の人達も、あなたと同じように振り落とされたと思う。案内人にでも頼んだんでしょうけれど、案内人は大抵が夜空の住人で、時々あなたみたいな人をからかって遊ぶのよ」
「あれが、夜空の住人?」
 世界に幾つかあると言われている夜空への架け橋の町の一つで、路地裏の猫と戯れていた男の姿を思い出した。
「でも、住人は自分たちの世界のことについては一言も口を利かないわ。あまり知られていないけれどこの町も架け橋の町の一つで、夜空の人達も居るけれど、決して喋ったりはしない。学者さんが調査に来ても黙りを決め込んだまま、具体的なことが何一つ分かっていないのが現状なのね」
「でも、僕は行きますよ」
 東子さんはやれやれと肩をすくめると、じゃ勝手にしなさいとばかりに、店の中を掃きはじめた。
「諦めるまで、二階のあの部屋、使っていいわよ」
 僕は礼を言うと、もう一つ準備されたブラシを取り、東子さんとは反対側から掃除を始めた。

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