「夜って、温かいよね」
一
──夜って、温かいよね。
この言葉を、洋二は覚えているだろうか。
あの子は、一口で言えば私と疎遠だった。
簡潔に言えば、私は基本的に洋二に対して無関心だった。そもそも私自身が子どもというものに対して関心を高く持っていなかった。
ただ、それに対する不満を一恵が口にしたことは無い。
「一人で大丈夫なのか?」
「私は平気。慣れてるし、元々あなたが無頓着なことは分かってたから。そこが好きなのよ」
一恵は大学のサークルの後輩だった。自分のことすらまともに世話できない私に何かと世話を焼いてくれていた一恵を、他の連中はからかうことによって余興としていた。
自然発生的に付き合い始めた後は、結婚までは一直線に進んだ。私が何をしなくとも、一恵は一人だけでどんどん事を運んだ。体はどちらかと言えば小柄で、ひ弱なイメージのする彼女の、何処からそれ程までの行動力が湧いてくるのか、今でも不思議に思う。
「いつも助けられてるわよ」
「気分だけで?」古ぼけたアパートの一室で同じ布団にくるまりながら、私は小首を傾げた。「僕は何もしてないけど。きっと、一恵がそんな気分になってるだけだよ」
「違うわよ」
「何が?」
空気に触れたままの彼女の肩に毛布を掛けると、部屋の澱んだ空気が動くのはすぐに分かった。
「本当に支えて貰ってるんだけどな、大分」
「こんな不精者に寄りかかってるんじゃ、駄目だよ」
「駄目かもね」肩をぎりぎりまで寄せ合い、私達は笑った。
それから間もなくして結婚式も無事に終わり、程なくして塚原と苗字を変えた一恵は洋二を身ごもった。洋二の名前を名付けたのは彼女だ。長男に二の文字を入れるのはどうかと尋ねると「ずっと前から決めてたことだから」と固い意志を込めた微笑みに拒絶された。
「私はこの子を守るわ。だから、あなたには私達二人を守って欲しい。二の字は、洋二が一人じゃないって意味をこめて付けたいの。でも、何もしなくても良いのよ、あたなは」
随分と勝手だったと、今では思う。だが、その時の私は甘えた。それが誤りであることには気付かなかった。洋二が産まれるとともに、私達は庭のある小さな賃貸マンションの一階に居を構えた。
甘えたことを、幾度も反省している。幼少期の洋二は、恐らくは私の愛情を知ることなく育った。少なくとも私に愛情を注いだという実感はない。思い出はアルバムの写真の数よりも遥かに少なく、記憶は淡い。
強いてあげるとすれば、あの時だろうか。あの子の四歳の誕生日を迎えたばかりのことだった。私は家に持ち込んだ仕事を片付けながら、庭で桜の花びらと戯れる洋二を横目に眺めていた。一恵は買い物に出かけていた。普段なら自転車の後ろにあの子を乗せていくのだが、私の目が行き届くことに安心したのだろう。
「無邪気なものだな」
駅から家までの道のりに、公園のあることを思い出していた。
桜並木は散り頃で、それなりに美しい景色を産み出しているはずだ。
「洋二、公園に行くか」
偶には父親らしいことをしても良いだろう。ほんの気分転換のつもりで、私は庭へ出た。いや、もしかしたら、犬を散歩にでも連れて行くような軽い気持ちだったからかもしれない。
「公園? お父さんと?」
目をぱちくりとさせ、小首を傾げてみせる。
「お仕事は?」
普段から、一恵に「お父さんのお仕事を邪魔したら駄目よ」と言い聞かせられていたのだろう。思えば、洋二と二人切りで外出したことなど、今までには殆ど無かった。
「今は休憩だ。洋二と公園に行くからな」
まだ、洋二は飲み込めていない顔をした。私に向けられていた視線も、所在無げにうろうろと動くと、背後の電線に止まっている鳩に吸い寄せられそうになった。
私に抱きかかえられると手足をばたばたさせたが、肩車をすると、それも止んだ。
「怖くないか?」
「うん、でも怖いけど平気」
落とさないようにゆっくり歩き出すと、洋二が息を飲むのを肌で感じた。
悪い気はしなかった。息子と散歩することも、新鮮な気分にさせてくれていた。
「お父さん、僕、上にいる」
「ああ、そうだな」
「固くて、ざらざらしてて、暖かい」
視線だけを上にあげた。
ブロック塀の一番上を、物珍しそうに叩いていた。
「にゃんにゃん、いないね」
いつもなら猫を見るのだと、一所懸命に洋二は説明してくれた。
恐らく私の見ている猫と同じだろう。野良猫のくせに太っていて、腹を重そうに抱えながら塀の上から見下ろしているあまり可愛げの無い猫だ。
「お父さん、にゃんにゃん好き?」
「嫌いじゃないよ」
「飼わないの?」
「そうだな……お母さんに聞いてみなさい」
逃げただけの答えだが、洋二は満足したらしかった。
「お母さん好き?」
「好きだよ」
「僕、怒るときちょっと嫌い」
「お母さんは洋二のことを好きだよ」
「じゃあ、好き」
公園はそれなりに人の姿を見出すことが出来た。肩車をしたままで歩いていると、前からやってきたお爺さんに深々と腰を曲げられ、危うく洋二を落としそうになった。
「桜、綺麗だな」
「うん」
一番綺麗だと教えられた場所は、歩道から外れ、管理事務所の影になっているところだった。
思ったよりも花は開いておらず、六分咲きくらいだろうか。
時折吹き込む風に揺られ、花びらはゆらゆらと私たちを取り囲んで笑っていた。
しゃがもうとすると、洋二は逆に近寄ることをせがんだ。
「枝、タッチしたい」
枝に手が届くのだろう。肩を持ち上げ頭を下げていると、不意に重みが薄らいだ。
「もう良いのかい?」「うん」
地面に降ろすと、右手にしっかりと一振りの枝を掴んでいた。
掌から五センチほどはみ出している枝には、しっかりと花びらが付いていた。
洋二の吹きかけた息に、くすくすと笑っている。
「もう一度、来ようかな」
うん、と答えの返ってくるのを、微笑みを浮かべて受け取るつもりでいた。
「ううん、いい」
理由は言わず、洋二は風車にするように息を吹き続けていた。
洋二の寝静まった後で告げると、一恵に「気紛れね」と言われた。
「やっぱり悪かったかな。洋二を喜ばそうと思ったんだが……」
「その辺りを、気紛れって言ってるの」
一恵は、くすりと可笑しそうに私を見つめた。
「そんなこと、しなくても良いのに」
少し、一恵の顔に嘲るような影が浮かび、私は虚をつかれて瞬きをした。
「どうしたの?」
「いや、何でも……」
もう一度見直した表情はいつものもので、何かの勘違いだろうと、その場はそれきりになった。
思えば、あれが洋二と関わりを持ち始めた始まりだったような気がする。理想的な、典型的な父親であったつもりはない。だが、中途半端に上辺だけの父親を演じていたことは事実だろう。あの子も、敏感にそれを気付いていたのかも知れない。
一恵は、洋二を近所の幼稚園に通わせていた。何処にでもあるような、寺の敷地を利用しただけの変わり映えのない少し古ぼけた建物だったが、庭に大きな古木があったのが気に入ったのだと、一恵は告げていた。自分も、同じような大木の下でよく遊んだのだという。
「それじゃ駄目かしら?」
「いや、好きにすればいいさ」
それ以上の関心は持たなかった。私にとって幼稚園とは小学校に入学する前の補助的な機関に過ぎず、ベテランの先生達に任せておけば大事無いだろうと楽観していた。近所に住む親たちは別の幼稚園に通わせているらしかったが、それも特に気には留めてはいなかった。
ある日家に帰ると、頭に包帯を巻いた洋二の姿があった。
「ブランコから落ちて、起き上がったときにちょうど当たったらしいの。先生方がすぐに病院に運んで下さったらしいけど、病院の診察結果では特に問題ないだろうって。一応レントゲンを撮ってもらいはしたわ、打った部分が怖かったから」
「会社に連絡は?」
「したけど、すぐに大丈夫って分かったから取り消しの電話を入れたわ。下手に心配されるといけないから、電話のこと自体伝えないで下さいって」
私たちの会話は耳に届いているのか居ないのか、洋二は体操座りをしてテレビを見ていた。
「痛くないか、洋二」
振り返った洋二は眩しそうに目を細め、まず視線を一恵に這わせた。そして私に向かってこくんと小さく頷くと、すぐに視線を画面に戻した。
「あなたにもあったでしょう、心配されたから照れてたのよ、きっと」
「忘れたな。もうずっと前のことだから、遠すぎて辿り着けない」
正直に答えた。私の中にある子ども時代の記憶は薄れていて、洋二の気持ちを推察するにはあまりにも足りない。何を考えているのか、私には分からずにいた。年を取りすぎたからだと、分かったように自己弁護していた。
隣のアパートには、気難しいことで知られる老人が住んでいた。いつからそこに住んでいるのかは誰も知らない。ただ、新興住宅地と呼ばれてもいいこの地域で、老人の住むアパートだけ酷く目立っていたことは事実だろう。周囲を睥睨するような目つきで道路に佇む姿に、まだ知り合いでなかった頃の私は目を合わさないようにしてそっと通り過ぎていた。偏屈で人と交わることを好まない、と言うのは、私だけではなく近所の住民の一致した意見だったように思う。
しかし一恵は、老人のことをいたく気に掛けていた。
「梶山さん、洋二のことを可愛がってくれているのよ」
遅くなった食卓で温め直された夕食を口に運んでいるとき、咀嚼する様子を微笑みを浮かべて見守りながら一恵は告げた。
「他の人にはあまり好かれていないみたいだけど、あの人はとてもいい人。今は少ないけれど、昔ならああいう人は別に珍しくなかったと思うな。頑固だけど一途で、他人のために心から怒れる人は、最近は少ないから。皆、忘れてしまっているだけ」
老人の名は梶山だということを、私は初めて知った。
「似てるのかい」「いいえ、全然反対よ。私には父親なんて居なかったから、憧れてるのかもね」
はにかむように一恵は笑った。今も田舎で公務員勤めをしている義父のことを、一恵は老人を見る度に思い出しているのだろう。もしかしたら、幼いときに他界したという実の父親の姿を重ね合わせてもいるのかも知れない。
家族が健在である私はそのことを考える時、自分の妻に対して一種の疎外感を感じざるを得なかった。
「でも、父親には要らないかな」
その言葉には、少し違和感を感じた。
次の日、私は初めて梶山さんに声を掛けてみた。「洋二が可愛がられてるそうで」
彼は軽く私を一瞥した。
「私、隣の塚原です。いつも妻と息子がお世話になっているそうで、ありがとうございます」
そのまま、表情を崩すことなく重たい口を開いた。
「あんたには似てないようだ」
「ええ、お陰様で」
やや重たい鞄を手に提げる私を見て、彼は言葉を続けた。
「子どもはそれでも、背中を見ている。自分の姿を父親に似せようと思ってな」
軽く一礼すると私は朝日の反射するコンクリートを歩き出した。後ろに感じる視線に少しだけ背筋の伸びる思いがしたものの、心中では、その期待には応えられないだろうと返答してもいた。
「今日は幼稚園もお休みだったから、絵本を読んでたわ」
一恵の日課である、洋二の一日の報告の中身に一人遊びの多いことを気付いたのは、いつのことだっただろう。
洋二は聞き分けの良い子どもだった。親馬鹿と言われる程には幼い頃の洋二に入れ込んでいなかったから、恐らくこの意識に間違いは少ない。年の近い親戚の子どもと比べてみても、食事の途中で席を立ったりはしなかったし、遊びのときのトラブルも殆どなかったように思う。良く言えば聡明な手間の掛からない子どもであり、悪く言えば大人しすぎる主体性のない子どもだった。
「遊びには行かないのか?」
帰り道に追い掛けっこをしていた子どもを見掛けたことを思い出しながら、私は尋ねた。
「日が暮れるまで外で遊んでいてもおかしくないと思うけどな、まだ幼稚園生なんだから」
「家の中で遊んでいる方が好きみたい。誰かが誘いに来れば一緒に遊んでいるけれど、自分から外に出ることは少ないわね」
「それで良いのかい?」
背広をハンガーに掛けながら、一恵は宇宙人でも見つけたようなきょとんとした目つきで私を見た。
そして「優しいのね」と笑った。
「でも大丈夫、小さい子どもの皆がみんな、外で遊び回るのを好きという訳じゃないわ。偶々洋二は絵本を読んだり一人遊びをするのが好きというだけで、お友達とはうまくやっていけているわよ。私もそうだったわ」
「心配しているつもりは無いよ、ただ少し気になっただけだから」
そう口で言ったものの、私には、洋二の、他の子どもとは違う点が短所のように見えて仕方なかった。
「……洋二は、寂しく無いのかな」
「あの子は、一人じゃないから」
そう告げると、一恵は夕飯の支度の続きをするために部屋を出ていった。私は鞄から持ち帰った書類を取りだして、今日はそれきり、洋二のことについて思い出し、懸念を口にすることはなかった。
ナイターを観ることは嫌いではない。質の低いバラエティを見せるよりはましだろう、という気持ちで、洋二や一恵の好きな番組がない日はチャンネルは野球中継に合わせることが多かった。洋二も、大抵は私と一緒になってぼんやりと画面を見ていたが、飽きたのかふいと一恵の元に行くことも多かった。
その日も、洋二は私の隣で膝小僧を組み、貧乏揺すりをしながら見たい番組が始まるのを待っていた。
「お父さん、どれが好き?」
不意に話し掛けてきた洋二に、私は書類をめくっていた手を止めた。
「何がだい」
「野球」
おじいちゃんは巨人が好きなんだって、と洋二は教えてくれた。おじいちゃん──梶原さんと洋二とは本当に仲がよいらしく、少ない会話の中にも、彼の名前は端々に登場していた。
「お父さんは、特にどのチームが好き、というのはないな」
「ないの?」
「ごめんな、洋二」
少しがっかりした様子を見せる洋二は、つまらなそうだった。
私は微笑んだ。人並み以上にスポーツに親しまず、大した興味も持ち得なかった私だが、洋二はそうではないらしい。その違いこそが、私には微笑ましかった。
「洋二は、外で遊ぶのは好きか?」
「好き」
「中で遊ぶのも?」
「うん」
「外と中と、どっちの方が好きだい」
「どっちも」
何でそんなことを聞くのか、と洋二の目が尋ねてくる。
「じゃあ、日曜日になったら、お父さんと遊んでみるか」
「いらない」
既に驚くようなことではない、いつもの拒絶が返ってきた。我が子ながら、つくづく不思議な子どもだと思う。反抗期にはまだ早いだろうに、私の誘い掛ける言葉の殆どは「いらない」の一言で片付けられていた。
「どうして、お父さんと遊ぶのは嫌か?」
私の方を振り向かないまま洋二はふるふると首を振り、膝に置いていた手を指先の方へ持ってやった。
「だって……」その後は言葉を見付けられないのか、洋二は視線をくるくると宙に舞わせ、口先を拗ねたように尖らせた。そして自分に納得したように頷くと、口を開いた。
「お母さんに怒られるから」
「洋二に、嫌われてるのかな」
私はその夜の出来事を、洋二の最後の言葉は抜きにして話してみた。
「そんなことは無いと思うわ。洋二はあなたのことが好きよ」
自分があまり父親らしくないことくらい認識してはいたから、好かれなくても仕方が無いとは思っていた。一恵がお父さんの仕事の邪魔をしたら駄目と言い聞かせていることも知っている。しかし、あの最後の表情は心の中で引っ掛かり続けていた。
その夜は、不思議なくらいに寝付けなかった。
私を世間一般の枠組みに当てはめて考えてみたら、ひどくつまらない、何一つとして特徴のない男として捉えられるだろう。その事を自覚してはいても、変えたいとは思っていなかった。そう思わせたのが、一恵の存在である。私にとって彼女の存在はそれだけ大きかった。
だからあの時の私にとって洋二は特に必要な存在ではなかった。恐らく一恵のおまけであり、付属物に過ぎなかったのである。ただ、それも確実に変わってはいた。
初夏の日射しの照りつける中を、私は同僚の韮山と共に歩いていた。蝉の声はまだだがもうじき鳴くのだろう、袖をまくっていても汗ばんでくるような、そんな昼休みだった。
「塚原さん、夏休みはどうされますか?」
「夏休みですか?」
休みは会社から強制的に取らされる。だが、休みと銘打ってはいても、家に仕事を持ち込むことに変わりはない。私は、今から夏休みのことを考えている彼ののんびりとした心性が少々羨ましくなった。
「夏休みは、特に何も予定してはいないですよ。妻は息子を連れて私の実家まで行くそうですがね、私自身の都合は今の段階では分かりません」
「そうですか」彼はすれ違うOLの一団に目を細め、そして私の方を見てから笑った。
「うちの方は旅行ですよ、妻が連れていけと煩いものでしてね。子ども達も、私の顔を見る度にお父さん旅行の予定を立てといてねと言う。まだ六月じゃないかと言いましたら、もう六月だと言い返されてしまいました。それで仕方なく、北海道への飛行機のチケットを取りましたよ。四人家族だと飛行機代だけでも馬鹿にならない。それでも子ども達の喜ぶ姿を見ていましたらこちらも何となく嬉しくなってしまって、これが親馬鹿という奴ですかね」
体が気だるく、会話はいつになく薄っぺらいように感じられていた。私のこういった話題に関する関心の薄さの表れなのだろうと、一人納得しつつ、相槌を打つ。
そんな私の心を知ってか知らずしてか、彼は暑さをものともせずに歩いていく。私の足は少しずつ遅れ始めた。
彼の背中は遠く、日射しはひどく暗い。
「塚原さん、どうされました?」彼の声もまた遠い。それが目眩を起こした所為だと気付いたときには、私は冷えた穴の底に引っ張られるような感覚を抱きながら目を閉じていた。
車のエンジン音が、耳にへばりついてくる。
機械の唸り声は目を閉じてしまってもまだ止まない、それがとても可笑しかった。
私が暮らしていた地域では、自然が機械に取って代わられることなど決してない。こんなにも音が違うなどと、日々の生活の中で考えたことなど、最近は無かった。
──洋二は、いつもこんな音の中で暮らしていて、別に不思議だとも思っていないのか。
不意に、そんな思いが頭に浮かんだ。公園の桜や幼稚園の敷地に親しんでいても、洋二は小さな自然ばかりを見ていて、大きな自然に触れたことはないだろう。
それは私の所為なのだろうと、素直に思えた。
そして初めて、済まないと言いたくなった。
仕事ばかりで洋二の相手をせず、何処にも連れていけない駄目な父親であることは自覚していたが、それを面と向かって謝ったことはあっただろうか。覚えている限りでは思い出せない。
洋二はいつも困ったような顔をして、笑い、頷き、首を横に振った。
かなりの時間を、私は今までの記憶を辿ることに費やしていた。しかし、私は特別なことを殆ど思い出せないでいた。思い出すのは単調な日々と、ほんの少しの起伏。本当に何もない。それは至極当然のことであり、幸せな生活の象徴でもあるのだろう。洋二と私の関係は、三流映画のように、延々と時間を垂れ流していた。たった一人の観客である私は欠伸をし、座席に深々と腰を埋めた。
眠っていた私の意識を起こしたのは、呑気な同僚の濁声だった。エンジン音は、いつの間にか空調の音に変化していた。
「なに、軽い貧血のようですよ。大したことは無いでしょう」
「どうも有り難うございました、韮山さん」それが一恵の声だとは、すぐに気付いた。
「塚原さんは仕事に手を抜けない人ですからね、ついつい気付かない内に体が参ってしまったんでしょう。手を抜くことばかり覚えてしまった私とは違いますね、基本的に全てに対して生真面目に動きすぎている──あ、奥さんの前でこんなことを言ってしまいますのは失礼でしたな」
「いえ、この人も他人の評価は気にはしませんから。ただ自分のやりたいようにやっているだけです。生真面目というよりは、我が侭なんです」
聞いていても腹は立たなかった。韮山が腕を前に組みながら苦笑を顔に作り、一恵が微笑みを顔に貼りつけている様子は見なくとも脳裏に浮かんだ。
「我が侭ですか。私にはそんな風には見えないですけどね」
「いえ、我が侭ですよ。私の父と一緒です」
ね、洋二。その言葉を聞いて初めて、私は洋二がこの場に居合わせていることを知った。どうして連れてきたのだろうか。普段の一恵ならば、梶山さんか近所の方に預けるなりしただろう。
会社を見せようとしたのか、それとも洋二が珍しく一緒に行くことをせがんだのか。答えが見つからないことに、私は少々の困惑を覚えた。
「あの人は我が侭すぎて、自分の気持ちは自分では分からないんです。他人に気付かせて教えてもらおうとするばかりで。でも、ケチをつけるつもりは無いんですよ。私は、あの人のそう言うところが好きなんです」
「当てられましたな」彼は快濶に笑った。そしてこの子の名前はと問い、「洋二です」と答えるのを聞くと、また笑った。
「きちんと返事が出来て、偉いね洋二君は。お父さんとお母さんが怒らなければ、うちの子どもにしたいくらいだよ」
音だけの世界の中、彼と洋二の途切れ途切れの会話は、私と洋二がするそれよりもずっと、親子らしいもののようにも思えた。光に白くぼやけた瞼の外には、私も知っている普通の家族像があるのだろう。
それは私には求められないものである。
何故か、一恵が私を見て笑っているような気がした。見えるはずもない唇が、何もしないでも良いのよと形作っていた。その横で洋二は笑っている。少しだけ困ったような顔をして。
「洋二君は、お父さんのことは好き?」
私は息をそっと抑え、洋二の言葉を一言とも聞き逃さないように、自分でも気付かない内にそうしていた。そして次に来るであろう拒絶の言葉を、心に少し針を刺して待っていた。
「うん」
はっきりとした声が、確実に私の耳朶を打ち、心に届いた。
「そうか。お父さんも嬉しいだろうね」
何気ない声が続いてくる。
私はさっきよりも希薄になった意識の中で、洋二の言葉の真意を懸命に探していた。
見付けられるはずなのだと、勝手に確信してである。
その時の洋二は付属物などではなく、間違いなく、私の息子だった。