「夜って、温かいよね」
二
洋二は後部座席に座り、通り過ぎていく山々の風景に視線を送っている。私には珍しくもない景色でも、洋二には新鮮に映るのだろう、ドライブインで買った缶ジュースを握り締め、顔は斜め後ろにずっと向けられていた。
「洋二、太陽が当たると暑いから、影に寄ってなさいね」
一恵の言葉にも生返事を返す。バックミラー越しにそれを見ながら、私は、今年の正月はどうだっただろうと考えていた。答えを思い出すことは出来なかったが、洋二のわくわくしているらしい様子とラジオから流れてくる音楽に合わせて、やはり来たのは正解だったと僅かなじんわりとした悦びを噛み締めていた。
「あと、三十分くらいかしら?」
「ああ、そのくらいだね。渋滞が思ったより酷くなかったから、電話で言っておいたよりは早く着けそうだ」
中央自動車道と長野自動車道とを乗り継ぎ、降りてから山道を走る。陽光に緑の映え渡る山々は、車列ごと呑み込んでしまうと錯覚してしまうくらいに悠然と座して私たちを迎えてくれていた。
帰省には、最初はついていくかどうか迷っていた。郷里の両親に顔を会わせることは億劫ではなかったが、洋二と私の奇妙な間隔を人にさらけ出すことを好んでしたいとは思わなかった。今になって思えば、他人の目を気にする分、私も当たり前の父親として存在していたのだろう。
「随分、嬉しそうね。最初は乗り気でもなかったのに、急に張り切っちゃって」
「別に親父たちと喧嘩しているわけじゃないからね。こっちの懐かしい景色も気晴らしには良いものだよ」
洋二が野放図な自然と触れ合う機会など、この帰省のときを除けば殆ど無いだろう。だから一緒になって連れていこうという気になった、そう一恵には説明していた。だが、もっと本当の部分を語ろうとすれば、私は洋二を見てみたかったのである。自然と向き合っていれば、子どもらしくない小器用さで自分の気持ちを包み隠そうとする、そんな洋二の本音の部分を覗けるのではないかと期待していたことは間違いなかった。
それに、私自身も懐かしい風景を瞼に収めたかった。高校を卒業したあとは滅多に戻らなくなっていた。目を見張るような高さの木々が掻き消されることのない影を作る、それと同じようなものなのだろう。成長してしまうと、足下に在ったもののことを忘れてしまう。山へ遊びに行き、自分を覆い隠してしまうような高さを見上げていたことも、懐かしかった。
両親――洋二にとっては祖父母となるわけだが――は、戸口の外まで出て私たちの車を迎え入れてくれた。
「おお洋二、大きくなったな。元気にしてたか? 元気に遊んだか?」
広い掌に頭を撫でつけられ、洋二は目をぎゅっと閉じていた。
「お父さんやお母さんの言うこと、きちんと聞いてるか?」
「うん」
玄関へ駆け上がっていく洋二の背中を見ていると、普段とは違うように感じる。
「親父達の前だと、素直なんだな」
「あら、洋二はいつもそうよ」
一恵の言葉も、洋二を見ているとそのように感じられた。とすれば、私の知っている洋二は私だけに向けられたものなのか。そうしなければならない理由は、分からなかった。
遅くなってしまった昼食は、氷の沢山入れられた素麺だった。それを食べると、私は子どもの頃そうしていたように、縁側へ出た。私がしていたのと同じようにして、洋二が薄く影差す縁側に横になっている。
「素麺、美味しかったか」
「うん」
洋二は自分の腕で枕をして、ぼんやりと薄目を開いていた。
何から何までが、二十数年前の焼き写しである。
母が置いてくれた扇風機の風に揺らされて、風鈴が軽やかに音を立てた。
「ここで寝てると、気持ちが良いな」
「うん、気持ち良い」
「ここから見える景色、全部が綺麗だろう」
「きれい。マサ君にも見せてあげたいくらい」
「夜はもっと綺麗になる。去年に来たときのことは覚えてるか?」
「ううん、あんまり覚えてない」
洋二は少し眠たそうに返事をすると、体を気怠げに動かした。
「お祖父ちゃんが、後で川に連れていってくれるらしいな」
「お父さんは?」
「お父さんも、一緒に行っていいのか?」
少し困ったような顔をして、洋二は首を振った。
「……ううん、いい」
洋二の表情を見て、私は見知ったばかりの頃の一恵を見た思いがした。
それがどのような場面だったのか、思い出せなかったが、はにかんだような笑みは、寺院で見る仏像のような優しさを浮かべていた。そのまま寝息を立て始めた洋二を見て、私は、知らず知らずのうちに口元を緩ませていた。
「山に行こうか」
私の言葉を聞いたとき、洋二はきょとんとしていたが、ややあって首をこくんと傾けた。
「お母さんは?」
「お母さんは、留守番だ。嫌か?」
二人で夜になったらドライブにでも行こうかというのは、実家に帰省することと決めたときからずっと考えていた。しかし、いつもと同じように拒否されるのではないかという不安はあった。
「駄目か?」私はもう一度念を押した。
「お母さんには内緒?」
「ああ、内緒だ」
何故そんなことを尋ねるのかは分からなかったが、私は特に気にも留めずに軽く答えた。洋二は少し考えるようにしていたが、うん、と私の方を見て笑った。まだ生え揃っていない歯がちらりと顔を覗かせる。
「どこに行くの?」
「それは、内緒だ」
洋二を助手席に乗せると、私はハンドルを握った。行き先は既に決まっていた。曲がりくねった山道、その途中にある休憩所だ。山の中腹から臨むことの出来る夜の世界の素晴らしさは、子どもの頃からよく知っていた。進学のために故郷を発つまで、幾度となく時を過ごしてきた場所である。
最初にそれを見たのは何時だったのだろうと、カーラジオから流れる洋楽に耳をそばだて、ぼんやりとライトの映す先を見ながら考える。幾つの時だったかははっきりと覚えていない、記憶にないのだから、恐らくは小学校に上がる前後のことだったのだろう。
今の洋二と同い年だったのかも知れない、そう思い視線を傾けてみると、洋二は口を硬く結び、暗闇に向けて目を見開いていた。私と、狭い空間に二人切りでいることに緊張しているのだろうか。声を掛けてみることに躊躇いを感じ、私はアクセルを踏む足に少し力を込めた。
靴先に小石が当たり、思ったより大きな音を響かせた。
言葉は発されていなかった。洋二は柵にもたれ掛かったまま空を見上げ、私はその様子をずっと見ていた。車のヘッドライトが行き交うこともない、音も闇も実に澄み渡った夜空である。このまま、じっとしているだけでも飽きないだろう。
後ろから見ると、洋二の背中は小さかった。掌に収まってしまうと錯覚してしまうようなそれは、心臓の躍動を直に見ることすら出来そうである。
少し吹いた風に踊らされ、周りの木々が軋み声を上げる。秋になれば、枯れた草葉の低く掻き鳴らされる演奏を聴くこともできる。冬になれば、白に口を閉ざされて寡黙となる。あの静けさを洋二に聞かせてみたかった。あの小さな体は、どのように受け止め反響するのだろう。
軽く咳を鳴らしてみる。
呼応するかのように、もう一度風は鳴いた。
その時だった。声が聞こえてきたのは。
「夜って、温かいよね」
洋二はぽつりと洩らした。無意識のうちに、そう喋っていたのかも知れない。言葉は鳥の囀りのように、薄く透き通っていた。
「洋二、今のは梶山さんが言ってたのか?」
「ううん」空に向かって真っ直ぐに背筋を伸ばしていた。今にも倒れそうな姿勢のまま、目は空の輝きを全部吸い取ってしまおうかというほどに輝いていた。
「夜って、優しいから」
聞き直そうかとする前に、洋二はもう一度、口を開いた。
「夜って、お父さんと一緒だね」
言葉は地面に落ちると、弾むこともなく地中に沈み拡散されていった。蛾や羽虫は、音もなく自動販売機の薄ら明かりに群れ寄っている。忙しない羽の瞬きも、また水を打ったように静かだった。
洋二は何事もなかったように星を数えている。何百、何千と散りばめられているそれは、天幕に穿たれた無数の穴のようで、今にも降り注いできそうだった。
お父さんと一緒、と言われた意味は分からなかった。ただ、言われて悪い気にはならなかった。どのような形であれ、私は洋二に確固とした形で意識されていたのだから。
私は自動販売機に百円玉を二枚投じ、缶コーヒーと、ファンタのオレンジ味を取りだした。
「飲むか」
黙ったままと頷くと、洋二は湯飲みを持つように大事そうにして、二度三度と口に運んだ。おくびを出すと、手の甲で口元を拭い、またこくんと喉を鳴らした。
「タンサンの泡みたい」
「何が」
「星。しゃわしゃわしてて、つぶつぶだから。それと、なくなっちゃうから」
思いつきで言ったのだろうか。私は、自分の肩から力が抜けて軽くなったのを感じていた。足下の林から、寝惚けた蝉の鳴き声が上ってくる。私は帰ろうかと声を掛けると、車の鍵を手に取った。
私はカーラジオの音を絞り、パワーウィンドウを半分ほど開けた。吹き込む風に頬を撫でられつつ、洋二はすやすやと寝息を立て始めていた。体は体育座りのような格好をしながらシートに預け、ドアの方に顔を傾けている。何の夢を見ているのだろうと思い、私はくすりと笑った。
思えば、一年前など、このような構い方をしたことはなかった。仕事以外は全く同じような日々を過ごしているというのに、私の何が変わったのだろう。
予定されているすれ違い──ずっと続くだろうと思っていたのに、それもそうは行かないらしい。一恵は喜ぶだろう、私と洋二が親子らしくなったことを。そもそも、当たり前のことであり、それを厭う人間など私をおいて他にいないのだから。
ライトに浮かび上がる道は延々と続いている。時には曲がりまた真っ直ぐに戻る。こうしている限り、本当に果てしのないように感じられた。結局、それと一緒なのだろう。
洋二をおんぶし玄関を開けると、一恵はすぐに迎え出てきた。
「ごめんな、勝手に二人で出かけちゃって」
「お帰りなさい」洋二の寝顔を確認すると、一恵はほっとしたような顔を見せた。
「どこまで行ってきたの?」
「ちょっと山にね」
「そう」その時の一恵の言葉が、今思えば喜んでくれるだろうと言う私の期待を裏切り、拍子抜けさせると共に疑問をはっきりと抱かせるものだった。洋二をおぶったままの私に背を向けながら「良いのよ、あなたはこんなことをしなくっても」と告げたその声は、洋二が私の誘いを拒否する時のものとよく似ていた。