「夜って、温かいよね」

 三

 洋二は五歳になっていた。相変わらず、私の仕事は忙しかった。
 一恵はそんな私たちの面倒を見ながら、私たち父子の潤滑油としてもまた存在していた。寝る前に洋二について何がしかの報告をすることを、一恵は欠かしたことがない。それが無ければ、私は自分の息子について、全く無知のままであっただろう。
 何も変わらなかったのかと聞かれれば、変化はあったと答えられる。以前まではまったくの受け身の姿勢であった私も、最近では一恵の報告を、ある程度身を入れて聞くようになっていた。
「それでね」と、洗濯物を畳む手を止め、一恵は珍しく溜息をついた。
「洋二も一緒に受験したいんですって、その私立の小学校を」
 その日の話は受験のことだった。来年に小学校の入学を控え、周囲には私立や国立の小学校を受験しようという親が多い、とは前にも聞かされていた。
「洋二が?」
「ええ。仲の良い友達が一緒に受験しようって、洋二を誘ったらしいのよ。あの子と同じでない学校に行くのは嫌だって……この近所の子は、大抵の人がそこを受けるんですって」
 教育熱という奴なのかな、と私は心の中で呟いた。子どもに水準の高い教育を受けさせることは悪いことではないかも知れないが、そこまでして公立以外の学校へ通わせたいという親の姿勢は、関心の薄さゆえなのか私には分からなかった。
「嫌と言っている物を受験させるならともかく、洋二自身が受けたいと言っているんだから、無碍に否定する必要もないだろう。どうせ大した準備も無しには受からないだろうし、受けるだけならやらせてみても良いんじゃないかな」
「でもちょっとね、動機が動機だから。私は、洋二には公立でのんびりと育って欲しいものだから……低学年のうちはまだ良いけど、高学年になるとまた中学受験でしょう? そういう雰囲気の中に洋二を放り込むのは少し心配だし、私はそんなところには通わなかったわ。だから受けるのは止めさせようと思ってるわ」
「割と心配性だね」
 私の顔は、恐らくはいつもより綻んでいただろう。
 一恵はもう一度溜息を付いた。そして私の顔を見て「余計な心配をかけちゃったわね。気にしないでね、あなたはあなたの仕事をしていれば良いんだから」そう、ぴしゃりと閉め切るように告げた。
 私にもこの一年で薄々と分かったことがある。一恵は洋二と私が以前のような希薄な関係にあることを望み、深く関わることを嫌がっていた。それは、洋二に積極的な姿勢を見せるほどあからさまだった。
 何故だろうと思うものの、深く踏み入ることは躊躇われた。私は洋二の父親としてのみならず、夫としてもまた失格であったと言えよう。
 それから数日後のことである。梅雨の晴れ間だろうという気象庁の予報は大きく外れ、退社しようと言う時刻には、厚い黒雲が空を万遍なく覆っていた。雲のかかり始めていた頃は気にするように視線をちらりちらりと走らせていた皆も、窓ガラスを雨粒が叩きアスファルトを走る静かな音を耳にするようになってからは、諦め加減にして外への無関心を装っていた。
「傘、持ってきましたか」
 帰り支度をしていると、肩越しにひょいと声が掛かった。性分なのか、韮山は置き傘を置いていない。予想外の雨に居合わせて私の傘を当てにしているのもいつものことだった。
「傘でしょう。黒い方を使っても構いませんよ、私は青い方を使いますから」
 私もまた無関心を装うように平静に答えた。雨に濡れることより、電車の中でじっとりと肌を蝕む湿気のことを考えると気が滅入ってきて仕方がなかった。
 それよりも、空を見ていて一恵のことを思い出していた。ちょうどこの時期、まだサークルの先輩後輩でしかなかった頃である。同じようにして降ってきた雨に、傘を忘れていた私はどうすることもなく、階段教室の窓からただ漫然と雲を睨んでいた。同じ講義を取っていた一恵は、私の姿を見掛けると迷わずに近寄り、わざわざ何の用事だろうと驚く私に、傘がないんでしたら一緒に入りませんかと尋ねた。
 今になって考えても、非常に親しいというわけでもなかった私への申し出は、意外なものだった。後に、あれは下心だったのかと冗談半分に訊いてみたとき、一恵は言下に否定した。そう言うことなのだろうかと頷いてみるほかは無い。
 さて帰ろうかと顔を上げると、先程まで人の多かったオフィスは、残業する者もいないのか、ほんの数分でガラガラになっていた。
「困りましたよ」頭の後ろに手をやりながら、韮山が戻ってきた。
「塚原さんの黒い傘、誰かが勝手に借りちゃったみたいだ。置き傘を二つ持ってるから大丈夫だと思ったんでしょうな、私みたいに」
「じゃあ青い方、韮山さんが使って下さい。私は特に濡れても構いませんから」
 流石に逡巡する素振りを見せる彼に押し付けるようにして傘を渡すと、私は鞄を腹に押し当てて表に出た。地味な色の傘ばかり目立ち、雨足と共に沈んでしまったような彩りのオフィス街を、猫背気味に早足で駆け抜ける。一歩足を踏み出す毎に、ズボンの裾に跳ねっ返りの掛かってしまったのは分かっていた。駅までの十分ばかりの道は、私には深海魚の巣のように思えた。
 馬鹿なことをしたものだと、亜鉛色の光景を見ながら苦笑したのは、湿気の籠もる電車の中でである。後先考えず、まるで子どものような行為だったなと自分でも感じた。足下は頼りなげにひんやりしていたが、特に気にはなっていなかった。学生の頃を思い出した余韻は、まだ私の心を覆っていた。小さくとも、止まりそうにない心地よいフェードアウトだった。一恵の細かな表情を思い出していると、軒下で雨宿りをしている雀とふと目があったような気がして、私は、走り去り移ろっていく景色に、視線を流した。
 駅の改札口で二人を見付けたのは、私の方が先だった。
 梶山さんに手を引かれて少し恥ずかしそうにしている洋二は、空いている拳を握っては開き握っては開いている。逆の改札口の辺りに視線を配らせ、人混みの中から恐らくは私を捜そうとしているのだろう。隠れんぼのときに最初から場所に気付いているような、そのような感覚に思わず笑みが浮かぶ。
 私から声を掛けた方が良いのだろうか。それとも、何食わぬ顔をして、騙されてみた方が良いのだろうか。二人は人の流れに巻き込まれないよう、柱の側に立っている。私からは見えていても、或いは死角になっているかも知れない位置だった。
「お帰りなさい」
 矢張り声を掛けようと思い一歩を踏み出したより早く、肩の方から声が被さってきた。
「あっちを見ている姿がちょっと面白かったから、つい声を掛けそびれちゃって」
 傘を両手に持ちながら、一恵は笑った。
「迎え? よく分かったね、傘なしで帰ってくるのに」
「韮山さんが電話して下さったのよ。一目散に駆けてっちゃったものだから、旦那さんに風邪を引かせてしまうかも知れません、追いかけられなくて済みません奥さんって」
 成程、と私も笑った。ようやく気付いたのか、洋二と梶山さんがこちらに近付いてくる。細くなった目尻でそれを捉えながら、私はあの時したように首の後ろに手をやった。

 自分用の黄色い傘も、洋二はきちんと持ってきていた。傘の柄を持ちながら、くるくると回してみせる。勢い余って自分ごと回ってしまいそうにも見えるが、洋二は殊の外楽しそうだった。道を右に左に歩きながら小さな水たまりを捜し求め、足を突っ込んでは水を掻き分けていた。
「梶山さんも、洋二を連れてきて下さいましてどうも有り難うございました」
「いや。別に気にしてもらう程のことでもない。勝手にやっただけのことだ」
 相変わらず、飾り気のないぶっきらぼうな口調だった。険しいような顔で洋二の足の向く先を追っている。大人三人が、同じようにして首を傾けたり歩調を緩めたりしていた。そうしている姿はとても親子らしかっただろう。
「あんまり車道に寄ったら駄目よ」
 声を掛けると、一恵は自分の傘を半分だけ洋二の黄色い傘に覆い被せた。雨垂れのトン、トンとビニールを打つ音はこちらまで聞こえてくるようである。
「あんたの話をあの子はよくする」
 二人の背中を追う形になると、梶山さんは何かのついでのように口を開いた。
「そうですか」
「お母さんに言ったら駄目、と念押しした後でな。あの子は母親が父親を自分から遠ざけようとしていることを知っている」
 思わず、どきりとした。私達の作っている歪さを一人で受け止め隠している洋二の懸命さと心に抱えている重みは、私にも容易に想像が付いた。
「夫婦のことだ。口は出せない。いや、もう出しているか」それならついでに言わせてもらうがと前置きした上で、言葉が続く。「子どもが板挟みになるのは感心しない。だからあの子のために解決して欲しいと思っている。不思議なものだな、夫婦仲が悪いようには思えないが」
 彼は天井からぽつりぽつりと不規則に雨垂れがしているような、不器用な言い方で私に問いかけてきた。
「私も最近分かってきました。それまでは気付くことすら出来なかった」
 一恵は嬉しそうに笑いながら洋二と先を歩いている。
「いつも問題を先送りにしている。父親としても、夫としても失格です」
「だが、やり直しは効くんだろう。あんたは、父親としても、夫としても愛されている。幸せな人間だ。仕事は出来ないより出来た方が良い。たとえ仕事場だけの関係でも、人望のないよりあった方が良い。下らなく口先ばかりの体裁ばかりを取り繕っても、中身が伴っていなければ、子どもは敏感に気付くからな。それに、少なくともあの子を玩具や道具ではなくてかっちりとした人間として見ている。そこらにいる、遊びの延長線上で子育てをしている親よりはなんぼかましだ」
 話はこれで終いだとばかりに、ゆらゆらと首を振ると、彼は私から離れていった。
 寄り道をするからという梶山さんと別れると、洋二は初めて気付いたように私の方を振り向き、一恵と挟まれるようにして横に並んだ。しかし私は家に帰るまでの間ずっと、彼との会話について薄ぼんやりとした思考を張り巡らせていた。つまり上の空だった。
 玄関を潜ったとき私はようやく口を開き、今日は寝る前に大事な話をしたいと告げた。「あなたが考える必要は無いって言ってるじゃない」
 洋二が寝静まった後、まず小学校の受験のことを切り出すと一恵は思ったよりも強く反発した。
「どうして? 私は行かなかったわよ、そんなところ」
「僕達が子どもだった頃とは時代も違うんだ。何でもかんでも僕達の頃と一緒って訳にも行かないだろう」
「でも、私はやっぱり行かなくても良いと思うわ。洋二には合ってないわ」
「うん、でもしっかりと話し合ったりした方が良いと思うんだ」
「私と洋二のことは考えなくても良いって言ってるでしょう? 仕事で疲れたりするんだから、そんなことまで抱え込まなくて良いのよ」
 いつもなら安心する笑顔が、今日は嘘のように違って見える。
「僕も、洋二のことを君と一緒に考えたいんだ」
「勝手なことを言わないで」
 同じような問答が少し続き、一恵は態度を硬化させ、次の一言をかけることを私は躊躇った。洋二を遠ざけていた事実を問い質すことは、私達の関係を大きく損ねるかも知れない。自分の知っている一恵を喪失する恐怖感が脳内を駆け巡り持っていたはずの勇気を萎縮させ逡巡することを強いていた。一恵と洋二と、どちらを取るのか。
「私にとって父親っていうのは、夜みたいな存在に過ぎなかったわ」
 跳ね上がる鼓動を抑えようと深呼吸をしたその瞬間、一恵の声が気まずい沈黙を破った。
「何も声を掛けてくれず、これといった思い出も無く、覚えている姿も殆どおぼろげで、気が付けば義父に代わってしまっていた。だから、私は父親を必要としない生き方を選ばなければならなかったわ」
「だからと言って、僕は居なくならない」
「目の前に居ても、居ないのと同じよ。洋二にとってあなたは何だと思ってるの」
 声には非難する調子は無く、ただ事実をトン、と無慈悲に一突きで捉えていた。
 私はあの夜のことを思い出していた。
「洋二に僕のことを夜と教えていたのは、君だったのか」
「そうよ」一恵はあっさりと肯定した。
 次に何と応えれば良いのか、私は分からずにいた。悪いのは全て私だった。
 私は唐突に理解していた。一恵が洋二を育てるに当たって、自分の生きてきた道になぞらえようとしていたことを。私は初めて知った。彼女の生い立ちについてはある程度知っていても、それだけ影を落としているなどとは夢にも思わなかった。だが、それは私が知ろうとしていなかっただけの話だ。私は父親どころか夫としてすら自分の役割を果たしていなかった。甘えることによって放棄していたのだ。私は体中がかっと熱くなるのを感じていた。体がぐらりと揺れて、床に膝を付く。
「悪かった、一人で放っておいて」
 梶山さんの言うような立派な父親ならばともかく、これまでの私に、一恵を非難する権利は何一つとしてなかった。あの人の前でも取り繕っていただけだ。息子に無関心で在り続けた私のどこに父親としての資格があると言うのだろう。
「勝手なことを言う。やり直せるかな」
「そんなの、無理よ。それに、私は今まででも平気よ」
 それでも私はそう告げた。父親としての上辺の役割だけを演じることを良しとして、自分の息子を育てると言う義務を放棄していた私を一恵が受け入れてくれるかどうかは分からなかった。ただ、一つだけ信じて良いのなら、これから積み上げ忘れていたものを拾っていきたかった。
 ──夜って、温かいよね。
 私という夜に、洋二の言う温もりが残っているのならば。
「頑張るから。僕も洋二の父親として、君の夫として、自分の責任を果たしたいんだ」
「今更、勝手だわ」
 私は、洋二の名前を付けた時のことを思い出していた。あの頃からそう考えていたのだろうか。違うだろう。きっと一恵も私が立派な父親であることを望んでいた。それを裏切ったのは私だ。父親になるということの意味も分からずにただ漠然と子どもを持ってしまった人間だった。
「でも、僕は二人を守りたいんだ」
 一恵にとって洋二がどのような存在なのか、考えたことも無かった。夫婦だと言うのに、私は父親としてどころか、夫としても失格であったことを思い知らされた。確かに私のことを自分の父親と重ね合わせていたこともあったのだろう。しかし、私がしっかりしていればそんなことは関係なかった。私がこうだから、そうするしか無かったのだ。
 この五年間、私は何もしなかった。
「すまない」
 自分のあまやかな身勝手さを罵りながら、こう謝る行為すら一恵にとっては迷惑にしか感じないのだと知りながら私は頭を下げた。流れていった時間を前に、今はそうすることしか出来なかった。

 数日後の、日曜日のことである。続いていた日曜出勤からは解放され、私は昼前に布団から這い出すと、遅めの朝食兼昼食を取っていた。一恵は次の日の朝には落ち着いた様子で、あの夜のことはおくびにも出さないまま、給仕を済ませるといつもと変わらない様子で洗濯物を干しに庭へ出ていた。
 梅雨の晴れ間の日射しの強さは、見ているだけで体の奥に染み込んで来そうである。昼にもなって何をしているのか、電線に止まっている雀の鳴き声が聞こえていた。寝過ぎたせいか、軽く伸びをすると節々が痛んだ。
 結局、あの後進展はなかった。しかし、私は徐々に父親らしくなっていこうと考えていた。一恵に認めてもらえるのがいつの日かは分からないが、それでも良い。
 玄関のドアの開く音がして、洋二がぱたぱた駆け込んできた。私が居ることに気付くと、走るのを止めてゆっくり歩く。手を後ろに組み、何かを隠している風だった。
「お父さん、お母さんは?」
「お母さんは洗濯物を干してるよ」
 少し躊躇った後、洋二は抜き足差し足で庭へ降りていった。思った通り、小さな手を重ねしっかりと蓋をしていた。あらテントウムシ、と言う声が聞こえた。梅雨明けの発表はまだでも、もう夏なのかも知れない。
 空になった籠を抱えた一恵が戻ってきた。赤いチェックのエプロンは、おままごとみたいだと言って笑っていた昔とは打って変わって馴染んでいた。
「まずお母さんに見てもらいたかったらしいね」
「ご免なさいね」一恵は明るい笑みを見せた。その屈託の無い笑いを見たのはあの日以来初めてだったような気がして、私は軽く目をしばたたいた。
「今日はどうする予定なの?」
「いや、これと言って特にすることはないね」
「じゃあ限られた資源を無駄に使わないためにも、仕事を頼もうかしら」
「何だい?」
「洋二を公園に連れて行ってくれる?」
 意外な言葉だった。それを隠さずに表に出すと、一恵は困った人ねと言いたげな笑みを漏らした、「少しは様子を見てあげようかな、と思って。父親の仕事なんて、したことないでしょう」
「ああ、あ、有難う」私は何とも間抜けな感じで返した。
「取り返しが効くかどうかは知らないけどね。私は今のままでも良いと思ってるのよ? でもあなたが言うなら仕方ないでしょう、だって、あなただから」
「ごめんな」
「謝らなくても良いわよ。あなたの我が侭なんて、今に始まったことじゃないんだから」
 いつもの表情だった。それでも私は心中で一恵に謝罪しつつ感謝した。遊びに行く公園は何処なのかと聞くと、以前洋二を連れて桜を見に行ったあの公園の名前が返ってきた。一角に遊具が置かれていて児童公園の形になっているらしい。
「洋二、公園に散歩に行くか?」
 テントウムシを指に乗せ、上に上にと登っていく様子を楽しんでいた洋二に声を掛けると、こっちを向いて視線をくるんと回した。
「お仕事はいいの?」
「洋二を公園に連れていくのがお父さんの今日のお仕事だ」
 それを聞いて、洋二はうんと即答した。
 雲は私たちの歩みと歩調を合わせるかのように悠然と北の方に向かって流されている。私たちはそれを見ながら公園に向かって歩いていた。小さな二つの足が、ゆっくりと歩く私の歩幅に合わせようと懸命に伸びている。うららかな日和だった。のんびりとした時間を押し戻すような空気に、辺りは包まれていた。
「良い天気だな」
「良い天気だね」
 私の口調を真似してから、洋二はおかしそうに笑い声を挙げた。
 公園にはもう幾らかの子ども達が遊んでいた。どれが洋二と仲良しの子なのかは分からなかったが、洋二はあっさりとその中に入っていった。一緒にテントウムシを捕まえていた子もここには居るのだろうか。
 母親らしい人たちが何人か固まって話をしていたが、私は遠くから会釈をするだけに留めた。相手からも会釈を返してくる。あちらでは、珍しいとでも思われてるだろうか。
 何か輪が出来たと思ったら、その中から抜け出して洋二が戻ってきた。
「マサ君たちと遊んできて良い?」
 遠慮がちに問うてくる洋二に、私は遊んできなさいと告げ、でも怪我をしたりしないように気をつけなさい、と釘を差した。今の言葉は随分と普通の親子らしかったな、そう思えてきたのは駆けていく背中を見ているときである。もうちょっと父親らしい動作をしてみようか――都合のいいことに、青色のペンキで塗られているベンチには誰も腰掛けては居なかった。特に差し迫っている仕事もないし、息子の遊んでいる様子を観察しながらのんびり空を眺めてみるのも悪くはないだろう、それだけの理由を追加してみた後で、ようやく私は腰を降ろした。
 他の子ども達も加わって、ボール遊びを始めたようだ。私はベンチに腰掛けたまま、その様子を見守った。特に考えもなくサッカーボールに群がって団子状態になる辺りは、幼稚園児らしい、微笑ましい光景だった。
 小さい頃にはああいう風に遊んでいたのだなと、ノスタルジックな気持ちを噛み締める。日が出てから沈むまで、疲れることなど知らないで遊び尽くしていた時期があった。しかしいつの間にか、そんなことは忘れ思い出せずにいた。それとも私の記憶は、洋二達の遊んでいる様子に刺激された脳細胞が勝手に作りだしたものなのだろうか。
 どちらでも良いことだった。どちらにしろ、それの持つ意味に変わりはなかった。ベンチの周りの雑草は陽射しを受けて透き通っていた。そこらに生えているものよりは瑞々しさに溢れているような気がする。地面にしっかりと根を張り、子ども達の足音と歓声を吸い込んで育っているのか。脇の下を汗が流れ落ち、ズボンの近くまで降りてシャツに吸い込まれた。
 暫くすると一人が抜け、サッカーに興じていた子ども達は一斉に思い思いの遊具へ散っていった。腕時計を見やるといつの間にか一時間ほど経っていた。洋二が、私の方へ駆け足に戻ってくると隣へ座った。
「楽しかった」
 私はどう反応して良いのか少し戸惑い、そうかとだけ素っ気なく答えた。
「もう遊ばなくて良いのか?」
「うん」手をベンチの板につき、地面まで届かない足をぶらぶらさせている。
 いくら遊んでも遊び足りないような年頃なのに、走り回って遊んでいるよりは私と公園のベンチに居る方が楽しいのだろうか。自分の息子ながら、考えてみれば考えてみるほど不思議な子どもだと思えてきた。
 喋らないことが気まずくなっていたが、何を話せば良いのかも分からなかった。去年は喋らないでも勝手に時が流れてくれたというのに。こんな時、一恵が居てくれたらと思う。これも承知の上での行動だったのだろうか。混乱する頭の中で、言葉が咄嗟に口をついて出た。
「洋二、小さい頃のことは覚えているか?」
 きょとんとした眼で、私を見る。
「いつ?」
 まだ、いつが大きい頃で小さい頃だったのだということは区別しないのだろうか。それとも、一日一日を楽しく生きることに忙しすぎて、あんまり前のことを思い出すこともないのだろうか。
「幼稚園に入る前くらい」
 後ろの方を宅急便のトラックがゆっくり走り去っていった。そのまた後ろから、生温い風がたっぷりと水を吸った木の葉を鈍く揺らし、公園の緑が一斉にさざめいた。私の心は、もう乱れてはいなかった。
「よく覚えてない」
「覚えてないって、何もか?」
「ううん」
 思えば、桜のきれいに咲きそろっていた日、洋二を連れてこの公園へ散歩に出たのはもう二年も前のことだ。私にはあっという間に過ぎ去った二年でも洋二にしてみれば人生の半分近くに数えられるのだ、とてつもなく遠い昔のことなのだろう。
 あの時の不思議な拒絶のことは、もう覚えてもいないのか。寂しい気持ちのする反面、ほっとしてもいた。
「お祖父ちゃんの家に行った時の夜のことは覚えているか?」
「夜?」
「お父さんのことを、夜みたいだって言ったろう」
「言ったかな?」
「いや、覚えて無いんなら別に気にしなくても良いぞ」
 脚をぶらりと投げ出して考え込む素振りを見せると、暫くして「言ったかも」と答えた。
「でもやっぱりあんまりよく覚えてない」
「そうか」
 ベンチと同じく、私の心も陽射しに温められ緩んでいた。
「小学校、受験したいんだってな」
「受験?」
「テストを受けること」
「うん」視線を少し伏せ気味にして、洋二は答えた。
「大変だぞ。近くの小学校に行くより時間が掛かるし、他の子より早く家を出なくちゃいけない」
 通勤途中のバスや電車の中で見掛ける子ども達のことを思い出していた。子どもだから乗り物に乗るのは楽しいだろうし、大人よりも苦痛を感じてはいないのかも知れないが、行かせる側の立場からすれば心配だった。
「それでも良いのか?」
 尋ねてから初めて、私は自分が洋二の受験をあまり快く思っていないことに気付いた。どうしてだろうか。本当ならばどちらでも良いはずなのに。この二年間で、私の洋二に対する感情は驚くほどに変わってしまったらしい。
 この後、私たち親子はどうなるのだろう。漠然としてしか考えてみなかった五年後、十年後の可能性が、急に楽しみなものに感じられてきた。勿論、その為には潜らなければならないハードルが山のように待ち受けているのだろうが。
 洋二が、私の方をじっと見ながらこくんと首を折った。
「じゃあ、頑張れ」
 うん、と洋二は頷いた。とても嬉しそうな朗らかな笑顔だった。

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